日本史2

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日本史  江戸時代


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  ●正誤問題
    徳川綱吉は湯島に聖堂を建てて、
   学問所として整備した。


180●○


   → 徳川綱吉は 木下順庵(キノシタ ジュンアン)に学び
    湯島聖堂(ユシマ セイドウ)を建てるとともに
    林鳳岡(ハヤシ ホウコウ/林信篤(ハヤシ ノブアツ))を
    大学頭(ダイガク ノ カミ)に任じて
    儒教を重視した。180

      (2003年度追試験 第4問 問3)


(2010/11/07(日))


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  ● シャクシャイン の乱が起こった年(西暦)は?


177●1669年


    → 松前藩が シャクシャイン を討伐する。


(2010/10/29(金))

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  ●正誤問題
    田沼意次は、
   特定の商人に金座や真鍮座をつくらせて、
   これらの品目に対する専売政策を進めた。


203下●×


  → 金座ではなく銅座である。
   金座は 主に金貨の鋳造を行なった。

   → 徳川10代将軍 徳川家治(イエハル)の時代になると、
    1772(安永(アンエイ)元)年 側用人から老中になった
    田沼意次(タヌマ オキツグ)が 十数年間に渡り実権を握った。
    この時代を 田沼時代(タヌマ ジダイ)という。
    田沼意次(タヌマ オキツグ)は、
    行き詰まった幕府財政を再建する為に、
    年貢増徴だけに頼らず 民間の経済活動を活発にし、
    そこで得られた富の一部を財源に取り込もうとした。
    そのために、まず、
    @ 都市や農村の商人・職人の仲間を
    株仲間(カブ ナカマ)として 広く公認した。203本文
    @→この一環として 幕府の専売のもとに、
     銅座(ドウザ)・真鍮座(シンチュウ ザ)・
     朝鮮人参座(チョウセン ニンジン ザ)等が つくられた。
    A 又、 運上(ウンジョウ)や冥加(ミョウガ)など、
    営業税の増収を目指した。203本文
    B 更に、1772(安永元)年から大量に鋳造された、
    南リョウ(金ヘン ニ 僚ノ字ノ 右側(ツクリ)ヲ 書ク 漢字)弐朱銀(ナンリョウ ニシュ ギン)
    を代表的な例とする、203下
    初めて 定量(テイリョウ)の計数銀貨(ケイスウ ギンカ)を鋳造させ、
    金を中心とする貨幣制度への 一本化を試みた。203本文

      (2002年度追試験 第1問 問3)

(2010/10/28(木))

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  ▲正誤問題
    鍋島直正は米沢織の生産を奨励し、
   藩学興譲館を設置した。


206,213〜214▲×


  → これらは、米沢藩上杉鷹山の改革である。

      (2003年度追試験 第4問 問5)

(2010/04/18(日))



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  ●正誤問題
     禁門の変の後、
   ただちに朝廷は倒幕の密勅を出した。


233本・右,236L4〜●×


     → 倒幕の密勅は、
      薩摩・長州藩に1867年に出された。233右,236L4〜
        禁門の変
       (蛤御門の変(ハマグリ ゴモン ノ ヘン))は、 1864年である。233本・右

        (2003年度本試験 第4問 問4)

(2010/04/16(金))


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   ●正誤問題
     奈良時代、
    僧侶や寺院を国家の統制下に置くため、
    寺院法度を定めた。



161下●×


  → 寺院法度は、
   江戸時代に
   金地院崇伝(コンチイン スウデン)が編纂した。197

      (2002年度追試験 第1問 問1)


(2010/04/10(土))


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   正誤問題
     徳川綱吉は、側用人として、
    大岡忠相を重用した。



193,197 ×


  → 大岡忠相ではなく柳沢吉保である。180
   大岡忠相は 徳川吉宗から
   江戸町奉行に任命された。197

      (2003年度追試験 第4問 問3)


(2010/04/09(金))



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   ●正誤問題
     考証学派の山崎闇斎は、
    のちに崎門学派を開いた。



193,193下,194上●×


  → 考証学派は
   古典の解釈を確実な典拠に基づいて
   理解しようと学派である。(193,194上)

    → ※ 戦国時代に 土佐で開かれたとされ、
     谷時中(タニ ジチュウ)に受け継がれた、
     海南学派(カイナン ガクハ/南学(ナンガク))も
     朱子学(シュシガク)の一派で、
     その系統から、
     山崎闇斎(ヤマザキ アンサイ)・
     野中兼山(ノナカ ケンザン)らが出た。
     特に、山崎闇斎(ヤマザキ アンサイ)は 神道(シントウ)を
     儒教流に解釈して
     垂加神道(スイカ シントウ)を説いた。193
     ここで垂加(スイカ)とは、闇斎(アンサイ)の別称である。
     これまでの伊勢(イセ)神道。唯一(ユイイツ)神道や
     吉川惟足(ヨシカワ コレタリ)に はじまる 吉川神道などを
     土台にしたもので、道徳性が極めて高い。
     神の道と天皇の徳が一体である事を説く事から、
     闇斎一門の 崎門学(キモンガク)は、
     尊王論(ソンノウ ロン)の根拠とも なった。193下

      (2003年度追試験 第1問 問4)


(2010/03/28(日))


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  ●正誤問題
     禁門の変の後、
   幕府は第1次長州征討(戦争)を行った。


233本右●○


     → 1864年、 禁門の変(蛤御門の変(ハマグリ ゴモン ノ ヘン))
      長州藩は朝敵とされ、
      同年に幕府は第1次長州征討を行った。233本右

        (2003年度本試験 第4問 問4)

(2010/03/24(水))


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  ▲正誤問題
    江戸幕府は、
   宗派ごとに本山・末寺の制を整えさせ、
   寺院を統制した。


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165▲○


    → 江戸幕府は、寺院法度(ジイン ハット)を出し、
     宗派毎に 本山・本寺(ホンジ)の地位を保障して
     末寺(マツジ)を組織させ、
     1665(寛文(カンブン)5)年には 宗派を越えた
     仏教寺院の僧侶全体を共通に統制する為、
     諸宗禰宜神主法度(ショシュウ ネギ カンヌシ ハット)を制定し、
     公家の 吉田家(ヨシダ ケ)を
     本所(ホンジョ)として 統制させた。165
    → 島原の乱(1637(寛永14)年) 後、173
     寺院が檀家(ダンカ)である事を証明する、
     寺請制度(テラウケ セイド)を設けて
     宗門改め(シュウモン アラタメ)を実施し
     仏教への転宗(テンシュウ)を強制する等
     キリスト教に対して 厳しい監視を続けて行った。165

   →    (2003年度追試験 第1問 問3)

(2010/03/23(火))


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  正誤問題
    江戸では金貨、
   大坂では銀貨を基準として、
   商業取引が行われた。


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199 ○


   →    (2003年度追試験 第4問 問6)

(2010/03/18(水))


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  正誤問題
    徳川綱吉は、
   それまでの法令や判例を集大成したり、
   裁判や刑罰の基準となる
   公事方御定書を制定したりした。


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199 ×


   → 公事方御定書を制定したのは、
    徳川吉宗である。198

        (2003年度本試験 第1問 問3)

(2010/03/12(金))


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  ●正誤問題
    享保改革期に、
   過去数年間の平均年貢量を基準に
   年貢率を決める 検見法が採用された。


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167下,198●×


   → 検見法ではなく 定免法である。
    検見法は 一部を刈り取り 収穫状況から税率を
    決める方法である。

    → 検見法(ケミ ホウ): 年貢率(免(メン)とも呼ぶ)は
            その年の収穫に応じて決める。
     定免法(ジョウメン ホウ):一定期間は 同じ率を続ける。167下

    → 徳川吉宗 は 享保の改革で
     検見法(ケミ ホウ)を改め
     「定免法(ジョウメン ホウ)」を広く取り入れて
     年貢率の引き上げをはかり、年貢の増徴を目指した。198

        (2002年度追試験 第1問 問3)

(2010/03/04(木))


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  ●正誤問題
    赤穂事件に取材したのが
   竹田出雲が著した『仮名手本忠臣蔵』である。


215上,(216)●○


   → ※ 脚本
       竹田出雲
         仮名手本忠臣蔵
         菅原伝授手習鏡(スガワラ デンジュ テナライ カガミ)

       近松半二
         本朝廿四孝(ホンチョウ ニジュウ シコウ)
       鶴屋南北(ツルヤ ナンボク)
         東海道四谷怪談

           215上

        (2001年度本試験 第4問 問1)

(2010/02/28(日))



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  ▲正誤問題
    江戸時代、河村瑞賢が
    東廻り航路 西廻り航路を整備した。

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188上,188本▲○


     → 南海路は、
      大坂・江戸間の
      菱垣廻船(ヒガキ カイセン)
      樽廻船(タル カイセン) の航路である。188上・本
       17世紀後半になると、
      江戸の商人の 河村瑞賢(カワムラ ズイケン)により、188本
       東廻り海運(ヒガシ マワリ カイウン)・・・東北地方←→江戸 188上
      ・ 西廻り海運(ニシ マワリ カイウン)
          ・・・江戸・大坂←→東北地方日本海沿岸 188上
      が整備され、全国的な海上交通網が完成した。188本
     → (2002年度本試験 第4問 問4)

(2010/01/13(水))


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  ●正誤問題
    江戸時代、庶民が日常的に使用した銭は、
   銅座で鋳造きれた。


190●×


  → 銅座ではなく銭座である。190

      (2003年度追試験 第4問 問6)

(2010/01/07(木))


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  正誤問題
    青木氏は、大坂夏の陣の後に
   江戸幕府の大名となった 譜代大名である。


161,161下 ×


  → 関が原の戦い以後大名になっているので、
   外様大名である。211

      (2003年度追試験 第4問 問2)

(2009/12/15(火))


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  ▲正誤問題
    江戸幕府は、
   天保改革期に 上知令を出したが、
   反対にあって 撤回した。


211●○


  → これによって 水野忠邦は失脚する。

     ・・・1843(天保14)年 上知令(アゲチ レイ)

    → 1841(天保12)年
       第12代将軍 徳川家慶(イエヨシ)の時代
        天保の改革 水野忠邦。211

      (2001年度本試験 第4問 問6)

(2009/12/10(木))

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徳川光圀 〜17世紀の流れ〜


(2009/12/02(水))

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  ●正誤問題
    鍋島直正は農村の再建をめざして
   均田制を実施した。


213〜214▲○


  → 他にも 鍋島直正は、
   大砲製造所を設け、軍備の近代化を図った。

      (2003年度追試験 第4問 問5)

(2009/12/01(月))

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  ▲正誤問題
    公武合体論の具体化として、
   孝明天皇の妹が─橋慶喜に嫁いだ。


232▲×


  → 公武合体論の具体化として、
   孝明天皇の妹が徳川家茂に嫁いだ。

      (2003年度本試験 第4問 問2)

(2009/11/28(土))

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   正誤問題
     徳川綱吉は生類憐みの令を出して、
    犬をはじめとする鳥獣の保護を命じた。



180〜181●○


  →  (2003年度追試験 第4問 問3)


(2009/11/17(火))

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   ●正誤問題
     村田清風は
    琉球との貿易を拡大して利益をあげた。



213●×


  → 薩摩藩で起用された、
   調所広郷(ズショ ヒロサト)の改革である。

   → ●調所広郷(ズショ ヒロサト)は 薩摩藩で
    下級武士から登用され、
    1827(文政(ブンセイ)10)年から 改革に着手し
    三都(サント)の商人からの莫大な借財を事実上棚上げにし、
    又 奄美三島(アマミ サントウ=奄美大島(アマミ オオシマ)・
    徳之島(トクノシマ)・喜界島(キカイ ジマ))特産の
    黒砂糖(クロ ザトウ)の専売を強化し、
    琉球王国(リュウキュウ オウコク)との貿易を増やす等して
    藩財政を立て直した人物である。
     更に、島津斉彬(シマヅ ナリアキラ)は 鹿児島に
    反射炉(ハンシャロ)を築造し、
    造船所やガラス製造所を建設した。
     ついで、島津忠義(シマヅ タダヨシ)は イギリス人技師の指導で
    紡績(ボウセキ)工場を建設し、
    この間 長崎の外国人商人グラバー等から
    洋式武器を購入して、軍事力の強化も 図った。213

   → ●村田清風(ムラタ セイフウ)は 長州藩で、
    多額の借財を整理し、
    紙・蝋(ロウ)の専売制を改革した人物である。
     更に 諸国の廻船(カイセン)を相手に 大坂の問屋等に
    本来 運ばれるべき商品=越荷方(コシニカタ)を置いて、
    その委託(イタク)販売等で収益を上げて
    財政の再建に成功した。213

   → ●また、佐賀(肥前(ヒゼン))藩でも
    藩主 鍋島直正(ナベシマ ナオマサ)が 均田制(キンデン セイ)を実施し、
    直轄地の小作料の納入を猶予(ユウヨ)したり、
    町人地主の所有地の一部を 藩に返させる等して
    本百姓(ホン ビャクショウ)体制の再建を図った。
    また 陶磁器(トウジ キ)の専売を進めて 藩財政に余裕を生み出し、
    反射炉を備えた 大砲製造所(タイホウ セイゾウショ)を設けて
    洋式軍事工業の導入を図る等、藩権力を強化した。213〜214

   → ●高知(土佐(トサ))藩でも、
    「おこぜ組(オコゼ グミ)」と呼ばれる改革派が
    支出の緊縮(キンシュク)を行って
    財政の再建につとめ 軍事力の強化を図った。214

   → ● その一方で、水戸藩のように、
    藩主 徳川斉昭(トクガワ ナリアキ)の努力にもかかわらず
    藩内の 保守派の反対等の抗争で
    改革が成功を見なかった例もある。214

      (2003年度追試験 第4問 問5)

(2009/11/13(金)・2010/03/19(金))


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   ●正誤問題
     山崎闇斎は、
    土佐で起こった朱子学の一派である、
    折衷学派の流れを くんでいる。



193,193下,194上●×


  → 山崎闇斎(ヤマザキ アンサイ)は、
   南村梅軒(ミナミムラ バイケン)を祖とする、
   海南学派(カイナン ガクハ / 南学(ナンガク))の流れを くんでいる。
    折衷学派は 儒学の一派である。193,194上

    → 戦国時代に 土佐で開かれたとされ、
     谷時中(タニ ジチュウ)に受け継がれた、
     海南学派(カイナン ガクハ/南学(ナンガク))も
     朱子学(シュシ ガク)の一派で、
     その系統から、
     山崎闇斎(ヤマザキ アンサイ)・
     野中兼山(ノナカ ケンザン)らが出た。
     特に、山崎闇斎(ヤマザキ アンサイ)は 神道(シントウ)を
     儒教流に解釈して
     垂加神道(スイカ シントウ)を説いた。193
     ここで垂加(スイカ)とは、闇斎(アンサイ)の別称である。
     これまでの伊勢(イセ)神道。唯一(ユイイツ)神道や
     吉川惟足(ヨシカワ コレタリ)に はじまる 吉川神道などを
     土台にしたもので、道徳性が極めて高い。
     神の道と天皇の徳が一体である事を説く事から、
     闇斎一門の 崎門学(キモン ガク)は、
     尊王論(ソンノウ ロン)の根拠とも なった。193下

      (2001年度本試験 第4問 問5)


(2009/11/03(火))


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  ▲正誤問題
    江戸時代、
   琵琶湖や淀川・利根川などで
   水上輸送が積極的に利用された。
     上記文章の正誤は?

188,188下▲○


  →     (2002年度本試験 第4問 問4)


(2009/10/31(土))

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  ▲正誤問題
    滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などの
   黄表紙が出版されて、広く読まれた。
     上記文章の正誤は?

188,188下▲×


  → 黄表紙 ではなく 読本(ヨミホン) である。
   黄表紙(キ ビョウシ)は 風刺滑稽の絵入り小説で、
   恋川春町の『金々先生栄花夢』などがある。
   『金々先生栄花夢』は、
   茶屋で団子を待つ間に
   栄華を極める夢を見るという内容。
     (2002年度本試験 第4問 問4)


(2009/10/29(木))

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  正誤問題
    徳川綱吉は、
   それまでの法令や判例を集大成したり、
   裁判や刑罰の基準となる、
   公事方御定書を 制定したりした。
     上記文章の正誤は?

199 ×


  → 公事方御定書を制定したのは、徳川吉宗である。

      (2002年度本試験 第4問 問4)


(2009/10/25(日)・2010/04/03(土))

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  ●正誤問題
    葛飾北斎らによって風景版画が出版された。
   上記文章の正誤は?

221▲○


  →     (2001年度本試験 第4問 問2)


(2009/10/22(木)・2010/04/06(火))

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  ●正誤問題
    大坂の綿問屋たちによる
   市場の独占問題が起こると、
   広域的な訴願闘争である越訴が起こった。


●○


     → 国訴とは、
      主に在郷商人の指導によって、
      領主・特権商人の流通独占に反対する、
      国レベルの訴訟のことである。

        (2003年度追試験 第4問 問4)

(2009/10/21(水))


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  ●正誤問題
     禁門の変の後、
   三条実美ら急進派の公家が
   京都から追放された。


233●×


     → 三条実美(サンジョウ サネトミ)は、1863 (文久3) 年の
      八月十八日の政変(ハチガツ ジュウハチニチ ノ セイヘン)で
      追放された。
        禁門の変は 1864 (元治元) 年である。233

        (2003年度本試験 第4問 問4)

(2009/10/14(水)・2010/03/30(火)))

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  ●正誤問題
    幕領(天領)の年貢徴収は、
   大目付により行われた。


163上本●×


     → 大目付は 幕政監察の役職である。

      → 大目付(オオ メツケ) : 大名を監察する。                老中の下部組織。163本上

        目付(メツケ) : 旗本を監察する。
              若年寄(ワカ ドシヨリ)の下部組織。163本上

       若年寄(ワカ ドシヨリ) : 老中(ロウジュウ)を補佐し、
                 旗本を監督する。163本上

        三奉行(サン ブギョウ) : 寺社奉行(ジシャ ブギョウ)・
                 町奉行(マチ ブギョウ)・
                 勘定奉行(カンジョウ ブギョウ)。163本上

        (2002年度追試験 第1問 問4)

(2009/10/12(月)・2010/03/09(火))

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  ●正誤問題
    中江藤樹は陽明学を学び、堀川学派を開いた。


194本右●×


     → 堀川学派は 伊藤仁斎の古学の一派である。194本右
        (2003年度追試験 第1問 問4)

(2009/10/07(水))


地方知行制廃止
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  ▲正誤問題
    多くの藩では、地方知行制は廃止されていった。
     上記文章の正誤は?

(82等)●○


  → 地方知行制は、
   藩で、大名が家臣に
   土地を与える知行形態である。82

        (2001年度本試験 第4問 問6)

        → 地方知行制廃止


(2009/09/22(火)等)


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  ▲正誤問題
    大名は、財政窮乏に際して、
   家臣に対し半知の手段をとる事があった。
     上記文章の正誤は?

(212〜213等)●○


  → 半知とは、大名が、
   家臣の知行・俸禄を半分にした事で、
   藩の財政困窮対策として行われた。161,162

        (2001年度本試験 第4問 問6)


(2009/09/11(金))

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  正誤問題
    徳川秀忠は武家諸法度を改訂して、
   大名に参勤交代を義務づけた。
     上記文章の正誤は?

162 ×


  → 徳川秀忠ではなく、徳川家光である。161,162

        (2003年度追試験 第4問 問2)


(2009/09/08(火))

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  ●正誤問題
    渡辺崋山は『戊戌夢物語』を著し、
   幕府による対外政策の無謀さを訴えた。
     上記文章の正誤は?

208●×


  → 渡辺崋山が著したのは『慎機論』であり、
   『戊戌夢物語』を著したのは高野長英である。208
     (2002年度本試験 第4問 問3)


(2009/09/07(月))

日本史2



  ▲正誤問題
    竹内式部は、
   江戸の民衆に尊王論を説いて幕府に処罰された。
     上記文章の正誤は?

220〜221▲×


  → 竹内式部は京都の公家に尊王論を説いて、
   宝暦事件で処罰された。

   → これに対して、山形大弐(ヤマガタ ダイニ)は
    江戸で 尊王論を説き、幕政の腐敗を攻撃したので
    死刑に処せられた : 明和事件(メイワ ジケン)。221
     (2002年度本試験 第1問 問4)


(2009/09/04(金))

日本史2



  ▲正誤問題
    江戸時代後期、大坂周辺の農民は、
   特権商人による綿などの流通独占に反対して、
   大規模な請願闘争を行なった。
     上記文章の正誤は?

(200〜202)●○


  →  (2001年度本試験 第1問 問5)


(2009/09/03(木))

日本史2



  ▲正誤問題
    塙保己一が、
   幕府の保護のもと和学講談所を設けて、
   『暦象新書』の編纂を行った。
     上記文章の正誤は?

216下▲×


  → 塙保己一(ハナワ ホキイチ)が編纂したのは
  『群書類従』(グンショ ルイジュウ)であり、216下

   『暦象新書』(レキショウ シンショ)は、
  志筑忠雄(シヅキ タダオ)が翻訳したものである。

   → 志筑忠雄(シヅキ タダオ) : オランダ通詞(ツウジ)。218

        (2002年度本試験 第4問 問3)


(2009/09/01(火))

日本史2



  正誤問題
    三下り半(三行半・離縁状)は、
   離婚を求める女性に対して、
   江戸幕府・藩が交付したものである。
   上記文章の正誤は?

 ×


  → 三行半は夫が妻に交付するものである。232

        (2002年度追試験 第4問 問2)


(2009/08/16(日))

日本史2



  ●正誤問題
    桜田門外の変のあと、
   老中阿部正弘は、
   尊王攘夷論を抑えるため、
   公武合体運動を推進した。
   上記文章の正誤は?

232●×


  → 阿部正弘は日米和親条約締結時の老中である。
   公武合体運動を推進したのは老中安藤信正である。232

        (2001年度本試験 第4問 問3)


(2009/08/14(金))

日本史2



  ▲正誤問題
    江戸時代、有田で磁器の生産が行われ、
   酒井田柿右衛門が赤線の技法を完成させた。
   上記文章の正誤は?

178▲○


  → 有田 磁器(ジキ)
      酒井田柿右衛門(サカイダ カキエモン)
        赤絵(アカエ)の技法を完成。178
        赤絵(アカエ)とは、赤を主調に多くの絵具(エノグ)を用い、
               様々の色彩を施す上絵付の一種を言う。178下

        (2002年度本試験 第4問 問2)


(2009/08/13(木))

日本史2



  ●正誤問題
    青木一重は、はじめ豊臣氏に仕えたが、
   大坂冬の陣で豊臣氏が滅亡すると、
   徳川家康に許されて、大名に取り立てられた。
   上記文章の正誤は?

160●×


  → 豊臣氏が滅亡したのは大坂夏の陣であり、
   豊臣秀頼が自刃した。
      (2003年度追試験 第4問 問1)


(2009/08/08(土)・2010/10/29(金))


日本史2



  ●寛政異学の禁が出された年(西暦)は?


205●1790年


    → 寛政の改革による 朱子学保護政策である。


(2009/08/08(土))




日本史2



 〜通史 近代日本の基礎〜

1.「徳川」体制の崩壊

●将軍・幕府の崩壊

・1867年(慶応3)10月14日:
  15代将軍( 1 )が朝廷(明治天皇)に( 2 )を上表。
・同年10月24日:(1)、征夷大将軍職を辞任を奏請。
 →12月9日:(▲ 3 )の大号令。新政府は、
  同日の(▲ 4 )会議で(1)を新政権から排除すると共に、
  (1)の内大臣辞任、幕領の返納を求めた(辞官納地)。
・1868年(慶応4/明治元)1月:( 5 )の戦い。
  →戊辰戦争が始まった。
・同年4月:( 6 )城開城
  →中央政府としての幕府が完全に消滅した。
・徳川氏は「駿府70万石」として
今の静岡県へ移された。

●諸藩の弱体化と廃藩置県

・戊辰戦争−伊勢桑名藩、上総請西(ジョウザイ)藩、
  陸奥会津藩、(▲ 7 )列藩同盟など旧幕府側の諸藩は、
  敗北後、改易・減封・転封などの処分を受けた。
  (削減された領地は総計100万石をこえた。)

 主な藩の処分
 ◇陸奥・会津藩23万石
    →領地没収。下北半島の斗南(トナミ)へ転封。
 ◇陸奥・仙台藩62万石
    →列藩同盟の盟主。28万石に減封。
 ◇越後・長岡藩14万石
    →2万4千石に減封。
 → 新政府軍に属した多くの藩も、
  戦費の増大により貧窮化した。
・版籍奉還−1869年、旧藩主は(● 8 )に任命された。
     旧藩主の土地・人民に対する領主権が
     天皇(政府)に接収された。
・廃藩置県−1871年、(8)は罷免され、
     かわって中央政府の官僚が府知事や
     県令として赴任した。
[一口メモ]
   戊辰戦争は関ヶ原の戦いに次ぐ規模の
  領地削減が行われましたが、
  処刑された大名は一人もなく、
  請西藩主の林忠崇(タダヒロ)は 1941年(昭和16)年 死去、
  94歳の長寿を保ちました。

日本史2

231,235 1.徳川慶喜 235 2.大政奉還 235▲3.王政復古 231▲4.小御所(コゴショ)
237 5.鳥羽・伏見 237 6.江戸 237▲7.奥羽越(オウウレツ) 239●8.知藩事(チハンジ)




日本史2



2.日本国民=個人の創出

 明治初期の諸政策については、
イギリス・フランスなどヨーロッパ諸国における革命や改革と比べて、
「自立した国民」が創出されたという点で
極めて進歩的であると評価されています。
 と同時に、その代表的な政策である徴兵制・地租改正・学制は、
近代日本の軍国主義の出発点でもありました。

●徴兵制−長州出身の(● 9 )が「国民皆兵」を唱え、
  全階層からなる近代軍制をめざした。
   →士族の特権を消失させた。

・幕末期に高杉晋作が結成した(● 10 )や、
 諸藩や各地で見られた農兵隊や
 農民の武装化などの事例が背景にあった。
・(9)の暗殺後、同じ長州出身の(● 11 )が継承した。
・1872年:(● 12 )
   −「血税」の文字が民衆に衝撃を与えた。
・1873年:徴兵令−満20歳以上の男子を対象にした。
・当初は代人料(● 13 )円納入者、戸主や
 その後継者などは免除されたが、
 1889年の法改正で
 免除規定はなくなった(国民皆兵が実現)。
・「天皇の軍隊」の法制化
 1878年:(● 14 )事件の衝撃
       →軍人訓誡(クンカイ)を配付。
 1882年:(● 15 )発布
       −「朕(天皇)は汝ら軍人の大元帥なるぞ」
 1889年:大日本帝国憲法−第11条
        「天皇は陸海軍を( 16 )す」

日本史2

241下●9.大村益次郎 241下●10.奇兵隊 241下●11.山県有朋 240●12.徴兵告諭
241下●13.270 ●14.竹橋 267下●15.軍人勅諭 267下 16.統帥



日本史2



●地租改正−農民の土地所有の実態にもとづいて定められた。

・1872年:(● 17 )を土地所有者に発行した。
・1873年:(● 18 )を公布。
・農民の土地所有が公的に認められた。
  ・旧大名・士族層の領主権・知行権は完全に排除・否定された。
・農民らの共同利用地(入会地)は官有地に編入された。
・江戸時代に形成された地主・小作人の関係は改善されなかった。
 また、高額な地租は、小作人へ転落する自作農を生みだし、
 近代の地主制度を生む要因にもなった。
・土地所有者は地租=地価の(● 19 )%を金納した。
 地租改正反対一揆で(● 20 )%に引き下げられた。
 1890年代の議会では「地租増徴」が
 政局の争点になったが、
 第2次山県内閣が3.3%に引き上げ、
 日露戦後には5.5%まで引き上げられた。

[一口メモ]
  明治初期の地租改正政策では、
 農民など人民が土地の所有権者であることが明確にされました。
 領主権(年貢徴収権など)をもっていた大名や、
 その家臣として俸禄を支給されていた藩士(士族)の中には、
 知行権の土地所有権への転換や、
 土地所有権の均等配分(均田化)などを
 求める主張もありました。
 明治新政府がこれらの主張を拒否したのは、
 長年にわたる農民の年貢納入の実績や、
 農民の反発(一揆など)を恐れたこと、
 そして何よりも、富国強兵・殖産興業の担い手となる
 「個人としての国民の創出」を
 めざしたことが根底にあったと考えられます。

●学制

・1871年:( 21 )省設置。
      由来は奈良時代の藤原仲麻呂の唐風化政策で
      式部省を改称させた語にある。
・1872年:学制を公布。
 「学制奨励に関する被仰出書(オオセ イダサレ ショ)」で、
 「自今以後、一般の人民(華士族農工商及婦女子)
 必ず邑(ムラ)に不学の戸なく、
 家に不学の人なからしめん事を期す」と宣言した。

日本史2

243●17.地券 243●18.地租改正条例
243●19.3 243●20.2.5 24621.文部

(2009/07/29(水))

日本史2


  ▲正誤問題
    老中などの役職に、
   月番と呼ばれる1か月交代の制度が取り入れられた。


163●○


     → 江戸幕府(地方に対して 中央)の職制は、
      3代将軍 徳川家光の頃までに整備され、
      はじめ 年寄(トシヨリ)と呼ばれて
      幕府の中枢にあった重臣(ジュウシン)が、
      老中(ロウジュウ)と呼ばれ政務を統轄(トウカツ)する様になった。
      臨時の最高職である 大老(タイロウ)は
      将軍代わり等、重要事項の決定のみ合議に加わった。
      又、老中を補佐し 旗本を監督する 若年寄(ワカドシヨリ)、
      大名を監察する 大目付(オオ メツケ)、
      旗本を監察する 目付(メツケ)の他に
      寺社奉行(ジシャ ブギョウ)・町(マチ)奉行・
      勘定(カンジョウ)奉行の 三奉行(サン ブギョウ)が置かれ、
      夫々の職掌(ショクショウ)も固まった。
      役職には 原則として 数名の大名・旗本らがつき、
      月番交替(ツキバン コウタイ)で政務を扱った。
      簡略な訴訟は その役職で専決(センケツ)したが、
      役職をまたがる事項等は 評定所(ヒョウジョウ ショ)で
      老中・三奉行が合議して裁決した。163
     → 2001年度追試験 第1問 問5

日本史2


   明治維新が起こった年(西暦)は?


237〜 1868年


  → 中央集権制度が復活する。


(2009/07/26(日)・2009/09/11(金))

日本史2


  幕府設立の機関と人材

 幕末期に幕府が設置した機関の中には、
明治時代に継承されたものや、
優秀な人材を世に送り出したものが少なくありませんでした。

 以下、サブノート形式で列記します。

●(● 1 )−1855年、長崎に設立。
      オランダ人による蘭学・航海術・西洋技術の伝授が行われた。
 ・伝修生
 (▲ 2 )−幕臣。1860年、咸臨丸を操縦してアメリカに渡った。
      → 軍艦奉行、陸軍総裁などを歴任。
       1868年、新政府軍の西郷隆盛と会見し、
       江戸無血開城を実現した。
       明治初期に海軍卿も歴任した。
 (● 3 )−薩摩藩士。
       のち実業界で活躍し、「大阪財界の父」と称された。
       1881年、同郷の開拓長官黒田清隆との
       官有物払い下げ問題が批判された。
 (● 4 )−幕臣。
       幕末期にオランダに留学、
       戊辰戦争最後の箱館戦争の幕府代表として
       新政府軍と戦い、投降。
       1875年、ロシア駐在の特命全権公使として
       (▲ 5 )交換条約に調印。
    佐野常民−肥前(佐賀)藩士。
       大蔵卿など歴任。日本赤十字社を設立。

●(● 6 )−1856年、蕃書和解御用・洋学所を継承して開設。
       のち洋書調所・開成所(明治元年に開成学校)となり、
       東京大学の前身の一つになった。
 ・教官
 (● 7 )−宇和島藩士。
      (▲ 8 )が大坂に開いた適塾出身。
       のち故郷長州に戻り、
       第二次長州征討時の長州藩側の総司令官をつとめた。
       維新後、「国民皆兵」による近代徴兵制の基礎を築いた。
 (● 9 )−津和野藩士、幕末期にオランダに留学。
       大政奉還前後、15代将軍・徳川慶喜に近侍して、
       徳川氏中心の近代国家を模索した「議題草案」を起草した。
       明治期には、明六社に参加。
  官僚として軍人勅諭などを起草した。
 (● 10 )−出石(イズシ)藩士。
        明六社に参加。『国体新論』を著す。
        東京大学の初代学長。


●1.海軍伝習所 237▲2.勝海舟 255下●3.五代友厚 237●4.榎本武揚
251▲5.千島・樺太 218下,(237下)●6.蕃書調書 234,241●7.大村益次郎 218▲8.緒方洪庵
237下,248●9.西周 248●10.加藤弘之




日本史2


  幕府設立の施設

●( 11 )−1861年に幕府が設立した長崎製鉄所が前身。
        明治政府が接収して官営とし、
        1887年、三菱に払い下げられた。
        近代日本の主要な造船所として、
        戦艦武蔵などを建造した。
        第二次世界大戦後は、企業分割、再統合(1964年)を経て、
        三菱重工業の主要造船所として今に至る。
●( 12 )−幕府が水戸藩に命じて1853年に設立。
        明治政府の海軍の管轄下に置かれ、1876年に民営化。
        1945年石川島重工業となり、
        1960年に播磨造船所と合併、石川島播磨重工業となる。
        2007年、IHIに社名変更。
●( 13 )−1866年に幕府勘定奉行の小栗忠順(タダマサ)が
        フランス人技師を招いて、横須賀製鉄所として開設。
        明治政府の海軍の管轄下に置かれ、
        1903年に横須賀海軍工廠(厰)(コウショウ)となり、
        多くの軍艦を建造した。
●( 14 )−1862年に幕府が設立した関口大砲製作所が前身。
        明治政府の陸軍の管轄下に置かれた。
        1935年に福岡県小倉に移転、
        跡地が今の後楽園球場である。



244●11.長崎造船所 ●12.石川島造船所
244●13.横須賀造船所 244●14.東京砲兵工廠(厰)




(2009/07/23(木))


日本史2


  正誤問題
    江戸幕府や諸藩は、
   村人に五人組をつくらせ、
   年貢の納入や犯罪の防止に連帯責任を負わせた。


167 ○


     → なお、村請制とは・・・・???
       村の運営は 村法(ソンポウ / 村掟(ムラオキテ))に基づいて行われ、
      これに背くと 村八分(ムラ ハチブ)等の制裁が加えられたりした。
      江戸幕府や諸藩・旗本は、このような村の自治に依存して
      はじめて年貢・諸役の割当てや収納を実現し、
      村民を掌握する事が出来た。167
      一つの村に複数の領主や知行主(チギョウ ヌシ)の支配が
      同時に存在する場合(相給(アイキュウ)と言う)も同様である。167下
      このような仕組みを 村請制(ムラウケ セイ)と言う。167本

     → 2003年度本試験 第1問 問4

(2009/07/16(木))



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  ●正誤問題
    江戸時代、
   南海路を廻船が定期的に運航して
   物資輸送を行った。

日本史2

188上●○


     → 南海路は、
      大坂・江戸間の
      菱垣廻船(ヒガキ カイセン)
      樽廻船(タル カイセン) の航路である。188上・本
       17世紀後半になると、
      江戸の商人の 河村瑞賢(カワムラ ズイケン)により、188本
       東廻り海運(ヒガシ マワリ カイウン)・・・東北地方←→江戸 188上
      ・ 西廻り海運(ニシ マワリ カイウン)
          ・・・江戸・大坂←→東北地方日本海沿岸 188上
      が整備され、全国的な海上交通網が完成した。188本
     → 2002年度本試験 第4問 問4

(2009/07/12(日))

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  ●正誤問題
    幕府に仕えた木下順庵は、
   のちに古文辞学派を開いた。


194上●×


    → 古文辞学派を開いたのは
     荻生徂徠(オギュウ ソライ)である。

     → 伊藤仁斎(イトウ ジンサイ)らの古学を受け継いだ、
      荻生徂徠は、政治・経済にも関心を示し、
      都市の膨張をおさえ、武士の土着が必要であると説いて、
      統治の具体策を説く 経世論(ケイセイ ロン)に道を開いた。
      荻生徂徠は、柳沢吉保(ヤナギサワ ヨシヤス)や
      将軍 徳川吉宗に用いられ、
      享保(キョウホウ)の改革では 顧問(コモン)の役割を果たした。194
       尚、太宰春台(ダザイ シュンダイ)は その弟子であり
      経世論を発展させ、武士も商業を行い、
      専売制度によって利益をあげるべきだと主張した。194

     → 木下順庵 : 朱子学。194上
     → 2003年度追試験 第1問 問4

(2009/07/09(木))

日本史2


  ●正誤問題
    江戸時代、商品経済の発達と共に
   三貨の交換が増えたため、両替商が発達した。


190●○


     → 2001年度追試験 第1問 問5

(2009/07/07(火))

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   ●幕末史概観について
     以下の( ) それぞれに 適語を 入れよ。

〜.幕末期とは

 幕末期とは、一般に1853年ペリー来航から
1867年大政奉還(10月)・王政復古の大号令(12月)までの
時期をさします。
 この時期について、
高校日本史教科書の多くは
「近代」の始まり(明治維新の準備期間)に位置づけています。
(最近の教科書の中には、幕藩制の矛盾が表面化した
1830年代を「近代」の始まりに位置づけるものもあります。)

<復習>

●1830年代以降−幕藩体制の矛盾の表面化
・1837年:大坂町奉行所の元与力(ヨリキ)の( 1 )が反乱を起こした。
・1837年:漂流民を連れて来航したアメリカ商船( 2 )号を砲撃。
・1841年:老中(▲ 3 )による天保の改革が始まった。
 → 江戸・大坂周辺の直轄領化を
 はかった( 4 )など相つぐ失敗を重ねた。
・この頃、明治維新を推進する薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)等の
 西南地方の大藩(=● 5 )が藩政改革で成果を収めた。

日本史2

1.209-210 大塩平八郎 2.208 モリソン
3.▲210 水野忠邦 4.211 上知令 5.214●雄藩(ユウハン)



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   ●幕末史概観について その2
     以下の( ) それぞれに 適語を 入れよ。

●ペリー来航以後の国内体制の分裂
・1853年:アメリカ使節ペリー、ロシア使節(● 6 )が来航。
・1854年:日米和親条約、調印−老中(▲ 7 )が主導。
 → 天皇・公家、外様大藩・親藩、幕臣などから意見を徴収。
  幕府独裁から挙国体制
  (幕政に外様大藩・親藩の大名らを参画)を模索。
・1858年:(● 8 )、調印。
 調印をめぐって政治的な争いが生まれた。
 □(● 9 )派−挙国体制(雄藩連合)を志向した
  −水戸前藩主( 10 )・
   薩摩藩主( 11 )・越前藩主(● 12 )ら。
   13代将軍家定の後継者として( 13 )<10の実子>を推した。
 □(● 14 )派
  −従来の幕府独裁型の維持につとめた−大老(● 15 )ら。
   13代将軍家定の後継者として
   紀州藩主(● 16 )<11代将軍家斉の孫>を推した。
 → 大老の主導で条約調印、
  (16)=改名して(● 17 )の14代将軍継嗣が確定。
 → 安政の大獄 →桜田門外の変(1860年)
 ※幕府独裁型の幕政運営は事実上困難になった。

日本史2

6.207上,228●プゥチャーチン 7.229▲阿部正弘
8.229●日米修好通商条約 9.231●一橋
10.232下●徳川斉昭、11.(213) 231,232下 島津斉彬
12.231,232下●松平慶永(ヨシナガ/春嶽(シュンガク)) 13.231 232下 一橋(徳川)慶喜
14.232●南紀 15.232●井伊直弼
16.232●徳川慶福(ヨシトミ) 17.232●徳川家茂


 → 1853年のペリー来航以降の日本史は、
  外交問題をきっかけに幕府を中心とする支配層が分裂し、
  武士など諸階層の動向も複雑にからみ、
  15年にわたる政争を経て
  明治維新(1868年)を迎えることになります。

   幕末史の特徴は、
  江戸時代は形式的な君主、
  伝統文化の継承者とされた天皇の権威が高まり、
  幕府(将軍)に対抗する存在になった事にあります。
   1858年の日米修好通商条約をめぐる混乱も、
  江戸幕府が孝明天皇の条約勅許を得られなかった事が出発点でした。
   このため天皇や公家が住む京都が政治(政争)の舞台となり、
  公家と結んで国政を動かそうとする武士(志士)たちを
  江戸幕府側の京都守護職配下の新選組が追いかけ回す
  などといったシーンの素地になります。

   そして、それまで幕政の中枢に関わる事が無かった
  外様大名(島津斉彬やその異母弟の久光ら)、
  親藩大名(水戸家の徳川斉昭、その実子の一橋慶喜)、
  幕臣(川路聖謨{かわじとしあきら}、勝海舟ら)、
  公家らが歴史の舞台で活躍した時代でもありました。

日本史2



   ●幕末史概観について その3
     以下の( ) それぞれに 適語を 入れよ。

2.幕末の政争

●「公武合体」の推移

・老中(▲ 18 )−幕府・大名(武家)と
 天皇・朝廷(公家)とが協調して
 外交や内政を乗り切る「公武合体」を志向した。
 →孝明天皇の妹(● 19 )と将軍徳川家茂の結婚を推進したが、
 1862年( 20 )で幕政から退いた。
・1862年:薩摩藩主の実父(▲ 21 )が
 勅使(● 22 )を伴って江戸に入り、
 幕政改革<=(● 23 )の改革>を要求、実現させた。
 → 徳川慶喜を(● 24 )、
  松平慶永を(● 25 )に就任させた。
  <旧(9)派=雄藩連合の復活>。
   天皇の命(勅)で幕政改革が断行されるのは異例の事態だった。
 → (21)が江戸から帰途する際に起きた( 26 )事件は、
  翌年の(● 27 )をまねいた。
   薩摩藩は、即時攘夷実行の立場をとらなかったが、
  外国の攻撃には応戦するという姿勢を示し、実行した。
・1863年:京に呼びつけられた将軍家茂が、
 天皇・朝廷に屈服。即時攘夷実行を約束した。
 → 5月:長州藩が領内の(● 28 )から外国船に砲撃した。
・1863年5月:朔平門外{さくへいもんがい}の変−
 即時攘夷実行派の公家・
 姉小路公知{あねのこうじきんとも}が暗殺された。
  →藩士を犯人とされた薩摩藩は、
  しばらくの間、朝廷への発言力を低下させた。

・1863年8月:(● 29 )の変
 −即時攘夷実行派の長州藩士や(● 30 )ら
 7人の公家が京から追放された。
 (七卿{しちきょう}落ち)
 薩摩藩が朝廷での活躍の場を回復させた。

・1863年末〜1864年3月:
 朝廷に任命された大名級の「参預{さんよ}」
 による会議が開催された。
 参預 徳川慶喜、松平慶永、山内豊信(土佐前藩主)、
    伊達宗城(宇和島前藩主)
    松平容保(会津藩主、京都守護職)、島津久光(薩摩藩主の父)
 → 再鎖国のための横浜鎖港などを協議したが、
  意見がまとまらず崩壊した。
  (薩摩藩は、幕府主導の国内改革に絶望し、
  独自の路線を歩むことになった。)

・1864年:(● 31 )
  −長州軍が京都に攻めのぼり、敗退した。
 → 第1次長州征討
  (長州藩は恭順したが、65年に反幕府派が藩政を奪取した)
・1864年:四か国連合艦隊が長州への報復戦争を断行した。
・1865年:孝明天皇、修好通商条約を勅許。
 ← 四か国の圧力を背景に、
  徳川慶喜(禁裏守衛総督)が
  朝廷に強く迫って実現させた。
  「公武合体・尊王攘夷」体制の崩壊。

日本史2

18.232▲安藤信正 19.232●和宮
20.232 坂下門外の変 21.232▲島津久光
22.●大原重徳、23.232下●文久
24.232●将軍後見職 25.232●政事総裁職
26.233 生麦 27.233●薩英戦争
28.233●下関 29.233●八月十八日
30.233●三条実美 31.233●蛤御門の変(禁門の変)
日本史2



 → 幕末史を「尊王攘夷派」」対「公武合体派」
  とみる図式がありましたが、
  近年ではこれを見直し、
  通商条約に対する賛否、攘夷を
  即座に実行するのかどうかといった立場をふまえ、
  「即今破約攘夷派」「攘夷実行慎重派」などの枠組み
 (町田明広『島津久光』)を設定する提起があります。

〜史料に見る公武合体・尊王攘夷〜

 1862年坂下門外の変は、
「公武合体」を推進した安藤信正を、
「尊王攘夷」の武士(水戸脱藩士)たちが
襲撃したことで知られる事件です。
 この襲撃で安藤は軽傷を負いましたが、
襲撃者6名全てが斬殺されました。

 襲撃者らが書きとどめた決起趣意書
(斬奸趣意書{ざんかんしゅいしょ})には、
公武合体と尊王攘夷の理念が示されています。

●斬奸趣意書
「このたび皇妹(孝明天皇の異母妹・和宮)御縁組の儀も
表向{おもてむき}は天朝より下され置{お}き候ように取り繕{つくろ}い、
公武御合体の姿を示し候{そうら}えども、
実は奸謀威力{かんぼういりょく}をもって・・
(安藤老中が孝明天皇の廃位を企てていると批判したうえで、
今後のわが国がとるべき方向性について)
・・無礼の外夷(諸外国)どもを疎外し(打ち払い)、
神州の御国体も幕府の御威光も相立{あいたて}て
大小の士民までも一心合体仕{つかまつり}候て、
尊王攘夷の大典を正{ただ}し、
君臣上下の義を明{あきらか}にし、
天下と死生を倶{とも}に致し候・・」

★ 襲撃犯らは「公武御合体」(公武合体)自体を
批判してはおらず、
幕府が孝明天皇の廃位を図っている事を
襲撃の動機にしています。
(その事実については不明)
  襲撃犯らは、「尊王攘夷」について、
 「神州の御国体も幕府の御威光も相立て」と、
 朝廷と幕府との協調関係(公武合体)のうえに
 成り立つものである事、
 「大小の士民までも一心合体仕候て」と、
 身分の差を越えた運動であるべきとの認識を示しています。
  この史料を見る限り、
 「公武合体」は「尊王攘夷」のための前提と認識され、
 「尊王攘夷」に反幕・討幕の意思は
 含まれていなかったと考えられます。

 松井秀行教諭のまとめによれば、次のようになります。

・尊王攘夷
 −中国の春秋戦国期(とくに春秋時代)の諸侯が掲げた
 スローガンに由来する語句で、
 日本の幕末期においては、天皇のみを尊崇するにとどまらず、
 朝廷・幕府のもとに諸大名や諸階層が団結して
 諸外国との交戦を準備・実行するための
 スローガンとして用いられた。

日本史2



   ●幕末史概観について その4
     以下の( ) それぞれに 適語を 入れよ。

●公武合体から朝廷主導(討幕へ)

・1866年:( 32 )
 −「犬猿の仲」だった薩摩藩と長州藩が提携した。
  この同盟を仲介した土佐脱藩士の( 33 )は、
  のちに「朝廷主導」の新政権を構想し、
  徳川氏(徳川慶喜)を諸大名の盟主に位置づける立場をとった。
  → 薩長両藩は、しだいに
   「朝廷主導(討幕)、万国対峙・開国和親」を模索。
  → 第2次長州征討(幕長戦争、四境戦争)で、
   幕府軍が各地で敗退した。
・1866年:将軍家茂、孝明天皇が死去した。
・1867年:薩摩・長州、幕府を討てという「(● 34 )」を得た。
 → 15代将軍慶喜、薩摩・長州の機先を制して
  (▲ 35 )を上表した。
 → 12月:( 36 )の大号令。
  (● 37 )会議で薩摩・長州の討幕派が
   徳川慶喜を新政権から排除することに成功。
1868年:鳥羽・伏見の戦い
 −(▲ 38 )戦争が始まった。

日本史2

32.234 薩長同盟 33.234 坂本竜馬
34.236●討幕の密勅 35.236▲大政奉還
36.236 王政復古 37.236●小御所 38.237▲戊辰


 → 附録

  幕末の西郷隆盛と徳川慶喜

 幕末史の流れの複雑さを示す一つの事例が、
西郷隆盛と徳川慶喜との関係の変化です。
1858年の将軍継嗣問題で、
西郷隆盛は主君・島津斉彬(シマヅ ナリアキラ)の命を受けて
徳川慶喜を将軍後継者にすべく京などで活動したため、
井伊直弼に狙われ、
安政の大獄時には自殺(鹿児島湾に投身)をはかっています。
 この10年後、
西郷は新政府軍の事実上の総司令官として
前将軍(15代)となった徳川慶喜の
江戸城へ攻め込むことになりました(結果的には無血開城)。

(2009/07/05(日))


日本史2



   ●欧米列強の波について
     以下の( ) それぞれに 適語を 入れよ。

1.江戸幕府と世界史

●江戸幕府成立と大航海時代の帰結

 大航海時代は、スペイン(イスパニア)・ポルトガルのイベリア半島2国の膨張
運動(キリスト教国のイスラム教国に対する国土回復運動
=レコンキスタと、キリスト教の革新運動
=プロテスタントに対する旧教側=カトリックの失地回復)によって展開し、
プロテスタント側(イギリス、オランダ)の勢力拡大(東インド会社の設立)によって
終わりを告げました。
 アジアでは、オランダが対日貿易を独占することになりました。
(江戸幕府は スペイン・ポルトガルとの通商を
それぞれ1624年・1639年に断ちました。 イギリスは、オランダとの貿易競争に敗れて自主的に平戸の商館を閉鎖しました。)

●鎖国体制下の欧米列強の膨張

 ヨーロッパ世界では、
17世紀前半の三十年戦争以後、
諸国が自国の増強につとめ(絶対主義化)、
アジアなど他地域との貿易活動から遠ざかりました。
 日本の「鎖国体制」が安定したのも、
こうした世界史の安定(停滞)によるものでした。

 ヨーロッパ諸国が再びアジアを強く意識するようになったのは、
イギリスが市民革命(17世紀)や産業革命に成功をおさめた
18世紀以降のことでした。
 同時期、ロシアは未開地のユーラシア大陸の北東部に勢力を広げ、
しだいに日本と国境を接するほどになりました。
 18世紀後半にはイギリスの植民地アメリカが
独立戦争(独立革命)を起こして勝利をおさめ、
領土拡張(西部開拓)の末、
19世紀の半ばには太平洋岸に達し、
「対岸」の中国との貿易に乗り出します。

 19世紀前半の日本は、
著しく成長したヨーロッパ(欧羅巴)やアメリカ(米国)
=欧米列強のアジア進出に直面することになりました。

2.鎖国日本への列強の波 (ゴローウニン事件まで)

○「鎖国」初期とロシアの東方進出

1640年 幕府、貿易再開を求めて来航の(● 1 )船を焼き、
      全乗組員を斬首。
     (1)船の来航は前年に禁止されていた。
1647年(1)船2隻、長崎来航。幕府、通商拒否を通告。
1673年 (● 2 )船リターン号、長崎来航。
      通商復活を要求。幕府は拒否。
      (2)は1623年に平戸商館を閉鎖し、
      対日貿易から撤退していた。
1685年 マカオ船、日本人漂流民を連れて長崎来航。
1702年 ロシア皇帝ピョートル1世、
      モスクワで日本人漂流民デンベエ(大坂出身)を引見。
      (以後、ロシアでの日本への関心は高まった。)
1708年 イタリア人宣教師(● 3 )、屋久島に上陸、逮捕された。
      →(3)を尋問した新井白石は
      『(● 4 )』『采覧異言』を著した。
1728年 ロシアのベーリング隊、
      ユーラシア大陸とアメリカ大陸の間の海峡(ベーリング海峡)を発見。
      (1741年、アリューシャン列島発見)
1738年 ロシアのシパンベルク隊、ウルップ島を南下。
      日本の陸奥・安房近海を航行。
      (この頃、首都ペテンブルクに日本語学校開設。
      薩摩出身の漂流民ゴンザが教師となる)

日本史2

1.172●ポルトガル 2.●イギリス
3.217下●シドッチ、4.217下●西洋紀聞


1.補足→172
 江戸幕府は、はじめ キリスト教を放任していた。
しかし、キリスト教の布教が
スペイン・ポルトガルの侵略を招く恐れを強く感じ、
又、信徒が信仰の為に 団結する事も考えられ、
1612(慶長17)年 直轄領に 禁教令(キンキョウ レイ)を出し、
1613年には 禁教令を 全国に及ぼして 信者に改宗を強要した。172〜173
禁教理由の第二は、江戸幕府が 貿易の利益を独占するためで、
貿易に関係している西国の大名が富強になるのを恐れて、
貿易を江戸幕府の統制下に置こうとした。
そのため、1616年には 中国船を除く外国船の寄港地(キコウ チ)を
平戸(ヒラド)と長崎(ナガサキ)に制限し、
1624(寛永元)年には スペイン船の来航を禁じた。
ついで 1633(寛永10)年には
奉書船(ホウショ セン)以外の日本船の海外渡航を禁止し、
1635(寛永12)年には 日本人の海外渡航と 在外日本人の帰国を禁止し、
中国船の寄航を 長崎(ナガサキ)に限った。173
これは 江戸幕府と中国との私貿易として 行われた。173下
→1637(寛永14)年 島原の乱(シマバラ ノ ラン)。173

2.補足→イギリスは1623年に平戸商館を閉鎖し、対日貿易から撤退。172左

3.4.補足→217下
 新井白石・・・
・・・イタリア人の宣教師 シドッチは1708(宝永5)年 キリスト教布教の為に
屋久島(ヤクシマ)に潜入(センニュウ)して捕らえられ、
江戸 小石川(コイシカワ)のキリシタン屋敷に幽閉(ユウヘイ)され、5年後に死んだ。
新井白石は その訊問(ジンモン)で得た知識をもとに著したのが、
采覧異言(サイラン イゲン),西洋紀聞(セイヨウ キブン) である。217下

日本史2



 ヨーロッパの北東部に位置したロシア(ロマノフ朝)は、
17世紀以降、ユーラシア大陸北部に領土を拡張し、
大清帝国との間にネルチンスク条約(1689年)、
キャフタ条約(1727年)を結び、オホーツク世界への進出に着手しました。

 鎖国下の近世日本は、
多くの漂流民を生んだ時代でもありました。
 日本海沿岸や九州西部から
朝鮮、琉球、中国大陸・台湾、ベトナム・タイ、フィリピンへの漂流(漂着を含む)が
記録上最も多く約50件ありますが、
太平洋岸から千島、カムチャッカ、パラオ、ハワイ、北米周辺へもあわせて
20件近くあります。
(『日本漂流漂着史料』などより)
 このほかにも、記録されなかった多くの漂流民がいたことは
言うまでもありません。

○ ヨーロッパ列強のオホーツク世界探検

1771年 ロシアの捕虜でカムチャッカ流刑から脱出した
      ベニョフスキー(ハンガリー人)が阿波・奄美大島に漂着。
      ロシアの対日侵略を警告。
      当時 幕政を主導していた(● 5 )は、
      ロシアへの警戒を強めるとともに
      ロシアとの交易(貿易)を模索。
1776年 イギリスのジェームズ=クック(キャプテン=クック)隊の第3次探検開始。
      喜望峰→太平洋のハワイ、ベーリング海峡を経由、
      日本近海を航行
      (1779年、富士山を遠望。クックはすでにハワイで殺害)
1778年 ロシア船、厚岸(アツケシ)来航。
      松前藩に通商要求、拒否される。
1785年 フランスのラペルーズ隊の探検開始。
      南アメリカのホーン岬から太平洋に入り、
      1787年に宗谷海峡(ラペルーズ海峡)発見。
1792年 ロシア皇帝(● 6 )の使節(▲ 7 )、根室来航。
      伊勢国出身の漂流民(● 8 )ら連れて、
      日本に通商を要求。
      幕府、長崎入港の信牌(入港許可証)を授与。
      この時の幕政指導者は老中(● 9 )であった。
      → 洋学者桂川甫周は
      (8)の経験談を『(● 10 )』にまとめた。
1796年 イギリス人プロートン、室蘭来航。
      翌年までに日本近海を測量。
1797年 オランダの傭船(アメリカ船)、長崎入港(1807年まで)
      ロシア人、エトロフ択捉)島に上陸。
1799年 幕府、(● 11 )を直轄地とする。

日本史2

5.203●田沼意次 6.206下●エカテリーナ2世(エスカチェリーナ2世)
7.206▲ラクスマン 8.206下●大黒屋光太夫
9.204●松平定信 10.206下●北槎聞略(ホクサブンリャク)
11.206●東蝦夷地


5.補足→203●田沼意次
 ・・・印旛沼・手賀沼の大規模な干拓工事(カンタク コウジ)を始めるなど
 新田開発(シンデン カイハツ)を試みた。
  又、仙台藩の医師 工藤平助(クドウ ヘイスケ)の意見を取り入れて
 最上徳内(モガミ トクナイ)らを 蝦夷地に派遣して、
 その開発や ロシア人との交易の可能性を調査させた。

10.補足→206下
 伊勢の船頭(センドウ)だった大黒屋光太夫(ダイコクヤ コウダユウ)の
見聞をもとにして書かれたのが
桂川甫周(カツラガワ ホシュウ)→北槎聞略(ホクサ ブンリャク)。

日本史2


 1771年〜1787年のわずか16年の間に、
ハンガリー人ベニョフスキー(日本では「はんべんごろ」)、
イギリス人クック、フランス人ラペルーズらの
史上名高い探検隊が日本近海を航行しています。
このことは、太平洋北部や日本周辺が
ヨーロッパの列強にとって注目されていたことを示しています。
 近年の研究では、
ロシア使節ラクスマンの通商要求に直面した江戸幕府が
ロシアとの貿易(通商関係)を模索していたとされています。
大黒屋光太夫が江戸で軟禁されながらも
蘭学者との交流を許されたのは、
幕府による洋学者の統制・保護によるもの
とする見方があります。
いずれにしても、洋学者にとって
オランダに加えてロシアに関する国情が
ヨーロッパ世界への窓口になったといえます。

○ ロシアとの対立と緊張緩和

1803年 アメリカ船、長崎来航。通商要求。江戸幕府、拒絶。
1804年 ロシア使節(● 12 )、長崎来航。
      漂流民を伴い、通商要求。
      翌年(1805年)、幕府、拒否。
      (ロシアの日本に対する不満が高まった。)
      → 蘭学者で芝蘭堂の主宰者(● 13 )は、
      日本人として初めて世界一周の航海を経験した漂流民津太夫
      (陸奥国の石巻出身、若宮丸の乗組員)らの経験談を
      『(● 14 )』にまとめた。
1806年 ロシア船、サハリン(樺太)に上陸、日本人の役人を連れ去った。
1807年 ロシア船、サハリン・利尻島等を攻撃。
      幕府、ロシア船打払いを命令。
      江戸幕府、(● 15 )を直轄地とする。
      (● 16 )奉行を設置。
        アメリカ船、長崎来航。薪水を要求。
1808年 イギリス船(● 17 )号、長崎に侵入。
      オランダ人2人を捕らえ、
      オランダ商館の引渡し、薪水などを求めた。
      (ナポレオン戦争の余波)
1811年 ロシア船の艦長(▲ 18 )が
      クナシリ(国後)島で逮捕。
1812年 淡路出身の商人(● 19 )が
      国後(クナシリ)島でロシア側に逮捕された。
      → この事件解決(1813年)の過程で
       日露両国間に信頼感が生まれ、
       緊張が緩和された。
1821年 幕府、蝦夷地を(▲ 20 )藩に返還。

 ラクスマン来航時はロシアとの通商も視野に入れた江戸幕府も、
政権担当者の交代などにより、
レザノフ来航時には「通商国(民間貿易のみ許可)は清・オランダ、
通信国(正式な国交を持ち、貿易も許可)は朝鮮・琉球」
とする外交体制を
「祖法(幕府初期以来の規則)」と認識・宣言したため、
ロシアとの関係を悪化させてしまいました。
 19世紀初頭の日露関係を改善させた高田屋嘉兵衛は
エトロフ航路を開いた人物でもありました。

日本史2

12.206●レザノフ 13.217,217中下●大槻玄沢
14.●環海異聞 15.206〜207●西蝦夷地
16.207●松前 17.207●フェートン
18.207,207下▲ゴローウニン 19.207下●高田屋嘉兵衛
20.207▲松前


13.補足→217,217中
 ※化政文化(カセイ ブンカ)期に出た、
大槻玄沢(オオツキ ゲンタク)・宇田川玄随(ウダガワ ゲンズイ)らにより
蘭学が各分野で隆盛を見せた。

大槻玄沢(オオツキ ゲンタク)→ 蘭学階梯(ランガク カイテイ)。
宇田川玄随(ウダガワ ゲンズイ)→西説内科撰要(セイセツ〜)。
大槻玄沢(オオツキ ゲンタク)の門人だった、
稲村三伯(イナムラ サンパク)→蘭日辞書(ランニチ ジショ)の ハルマ和解(ハルマ ワゲ)。


15.補足→206 ※1798(寛政10)年に 江戸幕府が
近藤重蔵(コンドウ ジュウゾウ)・最上徳内(モガミ トクナイ)らに
択捉(エトロフ)島を探査させた。
そして、東蝦夷地を直轄地にしたのは1799年。


(2009/06/24(水))

日本史2



   ●欧米列強の波について 〜続き〜
     以下の( ) それぞれに 適語を 入れよ。

3.鎖国日本への列強の波
   (異国船打払い令前後から日米和親条約)

 産業革命を象徴する蒸気力を応用したものが蒸気船です。
蒸気船は19世紀に外洋航海船・軍艦として
用いられるようになりました。
 蒸気船に不可欠なものが、
蒸気力を起こすため必要な、薪(まき)・水(みず)でした。

○アヘン戦争まで

1822年:イギリス船、浦賀に来航し、
     薪・水を要求し、給与された。
1824年:イギリス捕鯨船、常陸国大津浜に来航。
     乗員が水戸藩に捕らえられた。
      イギリス船、薩摩国(● 1 )に漂着。
     牛などを強奪したが、
     イギリス人1名が同島役人に射殺された。
1825年:江戸幕府、(● 2 )を発令。
     長崎以外に寄港するオランダ船も対象にした。
1827年:イギリス海軍が、琉球、小笠原諸島に来航。
1832年:尾張出身の宝順丸遭難。
     2年後、アメリカ大陸の太平洋岸に漂着。
      乗組員の音吉、久吉、岩吉、
     先住アメリカ人の奴隷となるが、助けられ、
     ロンドンを経てマカオへ。
1837年:アメリカ商船(▲ 3 )号、
     日本人漂流民(音吉ら3人、肥前出身の漂流民庄蔵ら4人)
     を連れてマカオを出港。
      → 浦賀・薩摩で砲撃を受けてマカオに帰還。
      シーボルト門下の洋学者(▲ 4 )は『(● 5 )』、
      同じく洋学者で三河国田原藩家老の(▲ 6 )は『(● 7 )』を
      それぞれ著して幕府の排撃策を強く批判した。
      →事件名(▲ 8 )

1840年:イギリスと清国との間に( 9 )が起きた。
1841年:土佐出身の漁師・中浜万次郎(ジョン万次郎)が漂流。
     アメリカ捕鯨船に救助され、
     ハワイ、アメリカ本土を経て1851年に帰国。
1842年:アヘン戦争の講和条約として、
     イギリスと清国との間に(● 10 )が結ばれた。
      日本では、老中首座の(● 11 )が、
     外国船(イギリス船など)に対する強硬策を転じて、
     薪・水を授与する(● 12 )を発令して、
     (2)を事実上廃棄した。

日本史2

1.207上●宝島 2.208●異国船打払い令
3.208▲モリソン 4.208▲高野長英 5.208●戊戌夢物語
6.208▲渡辺崋山 7.208●慎機論 8.208▲蛮社の獄
9.227 アヘン戦争、10.227●南京条約
11.210●水野忠邦、12.227●天保の薪水給与令



日本史2



 市民革命・産業革命を達成して
「近代」の先頭を走り続けたイギリス(大英帝国)は、
インドの植民地支配や中国へのアヘン政策など、
軍事力(暴力)を背景に
アジア世界への支配力を強めていきます。
 アヘン戦争は、
アジア世界がヨーロッパ世界に屈従する
はじまりを象徴する出来事でもありました。

○ペリー来航まで

1844年:(● 13 )国王が幕府に開国を勧告したが、
      幕府は同国が通商国であって通信国でないため、
      これを拒絶した。
1846年:アメリカ使節
      (● 14 )<東インド艦隊司令長官>が
      浦賀に来航。
      日本との通商を要求。幕府は拒否。
1849年:アメリカ軍艦プレブル号、
      アメリカ人漂流民十数人を引き取るため
      長崎に来航。

 この時、「プレブル号艦長グリーン海軍中佐が
アメリカで何番目に偉いのか」という
長崎奉行所の役人の質問に対して、
漂流民の一人ラナルド=マクドナルド(25歳)は
「(アメリカでは)一番上に立つのは人民である。
その次に大統領、その次に海軍では海軍長官、
次が提督、次が大佐、次が中佐で、
それがプレブル号艦長のグリーン氏である」と述べました。
 しかし長崎奉行所の役人らは、
なぜグリーン中佐が位を持たない漂流民を
迎えに来たのかを分からないまま、
マクドナルドらアメリカ人漂流民らの
プレブル号乗艦を認めました。

 ラナルド=マクドナルド(1824〜1894)は、
スコットランド系の父と
アメリカインディアンの母との間に生まれた人物で、
母の先祖(モンゴロイド系)と同じ血が通う日本への渡航を志し、
北海道の利尻島に潜入、長崎に送還された人物です。
長崎滞在中に幕府の通詞・森山栄之助らに英会話を教授し、
「日本に初めて英語を教えたインディアン」とされています。

1853年:アメリカ使節( 15 )<東インド艦隊司令長官>、
      浦賀に来航。
      大統領(● 16 )の国書を幕府役人に手渡す。
      ロシア使節(● 17 )、長崎に来航。
1854年:(15)・(17)再来航。
     日米・日露間でそれぞれ和親条約締結。
      日露和親条約
        → 国後(クナシリ)・( 18 )島を日本領とし、
        ( 19 )島以北をロシア領とした。
        (▲ 20 )は両国の雑居地とした。
     (● 21 )・イギリスとも和親条約を結んだ。

 1840年代にアメリカ海軍の軍艦の蒸気船化を進め、
「アメリカ蒸気船海軍の父」とよばれたのが、
マシュー=カルブレイス=ペリー(1894〜1858)です。
父は独立戦争時にアメリカ海軍の下で
軍事行動(海賊行為)も行った民間船の船長で、
9歳上の兄は米英戦争の「エリー湖の英雄」と讃えられた軍人
オリバー=ハザード=ペリーでした。

 マシューは、朴訥(ぼくとつ)で生まじめな愛妻家で、
丸々とした体格から実年齢よりも老けてみられ
「熊おやじ」というあだ名でよばれました。
 このマシュー=カルブレイス=ペリーが、
3世紀にわたって鎖国を維持して来た日本を
開国に導くことになります。

 オランダは、江戸時代は貿易だけ許された「通商国」でしたが、
日蘭和親条約によって日本(江戸幕府)と
正式な国交をもつ国(「通信国」)となりました。

日本史2

13.227●オランダ 14.227●ビッドル
15.228 ペリー 16.228●フィルモア
17.228,228下●プゥチャーチン
18.228下 エトロフ 19.228下 ウルップ 20.228下▲カラフト(樺太、サハリン)
21.228●オランダ

(2009/06/26(水))


日本史2


   以下(ア)(イ)に入れるべき
  正しい組み合わせを1〜4より一つ選べ。

(金肥が普及した背景には、)
地曳網を用いた九十九里浜の( ア )漁に代表される
魚肥生産の拡大や、
都市や農山漁村を結びつける流通網の整備があった。
 その一方で 急激な開発の進展を批判する学者も現れ、
熊沢蕃山は主著(● イ )の中で
行き過ぎた新田開発を戒めた。

1.ア−イワシ、イ−大学惑問   2.ア−カツオ、イ−大学惑問
3.ア−イワシ、イ−広益国産考  4.ア−カツオ、イ−広益国産考

日本史2


    → 2002(平成14)年 センター本試験問題 である。
184,184下,193 1

   →  鰹(カツオ)は 土佐などの釣り漁である。184
   → 「広益国産考(コウエキ コクサン コウ)」の著者は、
    大蔵永常(オオクラ ナガツネ) である。184下
     なお、大蔵永常 は 他にも、「農具便利論(ノウグ ベンリロン)」
    等を著している。184下
   → 熊沢蕃山(クマザワ バンザン)
    古代中国の道徳秩序を 鵜呑みにする 儒学を批判した為、
    江戸幕府によって 下総 古河(コガ)に幽閉され、そこで病死した。
     熊沢蕃山の 主著が 「大学或問(ダイガク ワクモン)」等で、
    武士土着論を説いて 幕政を批判した。193下

     江戸幕府より このように扱われたれた背景は 以下の通りである。
     まず、大義名分論(タイギ メイブン ロン)を 基礎にして
    上下の身分秩序を重視し、礼節(レイセツ)を尊ぶ事から
    封建社会を維持する為の教学(キョウガク)として
    幕府や藩に重んじられたのが 朱子学(シュシ ガク)だった。
    朱子学(シュシ ガク)についての詳述は こちらに譲る。
     これに対して、中江藤樹(ナカエ トウジュ)や
    門人の 熊沢蕃山(クマザワ バンザン)らは、
    明(ミン)の王陽明(オウ ヨウメイ)がはじめた 陽明学(ヨウメイ ガク)を学び、
    知行同一(チコウ ドウイツ)の立場で 現実を批判して
    その矛盾を改めようとするなど 革新性を持っていた為に
    幕府から警戒されたのであった。193

日本史2


〜「日本の味」と近世海運〜
  以下の文章は
 「日本の味」の主体となる魚介類についてであるが、
 それぞれの( )内に当てはまる適語を埋めよ。

   〜近世日本と魚介類〜

 近世の漁業では、
漁場を支配する(● 1 )が、
漁業従事者の(● 2 )を支配していた。
 →捕獲した魚介類を商品流通に乗せていった。

・ 鰯(イワシ)は古くから貴族の食事を飾り、
 長屋王邸宅跡出土の木簡に
 「伊委之」「伊和志」などと記されている。
 → 江戸時代になると、
  肥料(金肥)の( 3 )の原料として珍重された。
 今の千葉県の九十里浜(くじゅうくりはま)は、
(3)の主産地で、( 4 )網で知られる。
 網漁−摂津・和泉・紀伊地方で発達していた
 (● 5 )漁法が関東などに広がった。

・ 土佐などを主産地とする( 6 )は、
 江戸庶民が愛好する「初物(はつもの)」
 を代表するものとして愛好された。

・ 江戸中期以降、銀や銅にかわって、
 清国の中華料理の素材として珍重された、
 なまこ(いりこ)・ふかのひれ・ほしあわびが
 (● 7 )として輸出された。

・ 鰻(ウナギ)は古くから精気を養う食材として愛好された。
 万葉歌人の大伴家持(オオトモノ ヤカモチ)も、
 「夏痩{なつやせ}によしといふものぞ
  武奈伎{むなぎ}漁{と}り食{め}せ」(『万葉集』)と、
 夏バテ対策に鰻を摂る効用を述べている。
 → 江戸時代に「蒲焼(かばやき)」が庶民に流行し、
 醤油を普及させる要因にもなった。
 一般に、関東では背から開き、関西では腹から開くいわれについて、
 武士の都・江戸では「切腹」に通じるのでこれを嫌ったからだという。

・ 蝦夷地(北海道)では、
 肥料(金肥)の(● 8 )の原料でもある鰊(ニシン)が捕獲された。

日本史2

1.167●網元(アミモト) 2.167●網子(アミコ / アンゴ)
3.184 干鰯(ホシカ) 4.184 地曳
5.184●上方(カミガタ) 6.184 鰹(カツオ)
7.184●俵物 8.184●〆粕(しめかす)



(2009/06/20(土))

日本史2


  ●正誤問題
    江戸時代、商品経済の発達と共に
   三貨の交換が増えたため、両替商が発達した。


190●○


     → 2001年度追試験 第1問 問5

(2009/06/18(木)・2009/07/07(火))

日本史2



●( )を埋めよ。
  〜 日本の味 と 近世海運〜

○日本の味

 醤油・味噌・酒・酢などは、
いずれも古くからつくられていましたが、
荘園制の衰退・消滅により
荘園領主(貴族、大寺社など)の独占から
離れるようになりました。
 そして、江戸時代の泰平(平和)の長期化は、
人々が衣食住に彩りをもたせる
ゆとりを与えることになりました。

●醤油(ショウユ)

 刺身、寿司、うどん・そば、うなぎの蒲焼きに
不可欠な調味料として広がった。

・「こいくち(濃口)」
   −大豆と小麦の比率は半々で、
   今の千葉県の野田・( 1 )など
   運送に便利な河川流域で発達した。
・「うすくち(淡口)」
   −塩分濃度が高く、
    生産地は関西地方の紀伊国の湯浅、
    播磨国の(● 2 )などが有名である。

 ※現在も濃口・淡口の違いは、
 同じカップ麺類の製品でも容器の底などに
 E(東=濃口)、W(西=淡口)などの表記に
 見出す事が出来ます。(三重県の伊勢湾岸はEでした。)

●味噌(ミソ)

・仙台味噌−米麹{こうじ}・大豆を用いた辛口の赤味噌。
 江戸庶民の人気を集めた。
・八丁(ハッチョウ)味噌
  −三河国発祥。大豆だけを用いた辛口の赤味噌。
・江戸甘味噌
  −米麹の比率が高く、茶褐色の甘味噌。江戸庶民の人気を集めた。

 ※信州味噌−近代以降に広がった。米麹・大豆を用いた淡い色で辛口。

●酒(サケ)

・関西の伊丹・(● 3 )・灘が主な生産地で、
 関東ではそれにかわる生産地が生まれなかった。

●酢(ス)

・古くから和泉などで生産されていた。
 すし(上方では「鮓」、江戸では「鮨」)などに
 必要な調味料としてだけでなく、染料の定着にも用いられた。
 相模・駿河・摂津・紀伊・尾張でも発達。
 →尾張の赤酢は
  江戸後期に江戸に生まれた握り鮨によく用いられた。



1.185上,187 銚子 2.185上●竜野(タツノ) 3.185上●池田


日本史2



2.近世の海運業

 海運業は、陸路を用いた陸運業よりも
はるかに大量の荷物を短期間で運ぶ事が出来ました。

●泰平(平和)の社会の長期化と鎖国による国内流通路の整備

 →17世紀後半、江戸の豪商(▲ 4 )が
  2つの航路(海運)を整備した。

・(● 5 )−日本海沿岸(東北)→下関→瀬戸内→大坂。
・(● 6 )−日本海沿岸(東北)→津軽→江戸。

●大坂・江戸を結ぶ(● 7 )は、
「天下の台所」大坂から大消費都市の江戸への
物資を運送する重要な航路であった。
・(▲ 8 )廻船
  −堺商人による江戸への廻船に始まる。
  17世紀末、江戸の(● 9 )問屋の支配下に置かれ、
  最盛期の商船数は260艘に及んだ。
・(▲ 10 )廻船
  −18世紀前半、(6)から酒荷の廻船が独立して発足。

 →ともに18世紀後半以降、
  新興の廻船集団の進出に悩まされた。

 ※上方から江戸に下って運送されたものは
  「下りもの」と呼ばれて 高級品扱いされ、
  関東周辺で生産されたものは
  「下らないもの」と呼ばれました。


4.188▲河村瑞賢 ・・・江戸商人である。 5.188上本●東廻り航路(海運) 6.188上本●西廻り航路(海運)
7.188上●南海路 8.188上本▲菱垣(ひがき) 9.189●十組(とくみ)、10.188上本▲樽


日本史2



●新興の廻船集団

・(▲ 11 )
  − 蝦夷地(北海道)の松前と
   大坂との間の日本海航路を往復し、
   日本海沿岸にも寄港。
   はじめ松前に進出した近江商人の支配下に置かれたが、
   江戸中期以降、越前・加賀・佐渡の廻船集団が独立。

 <蝦夷地での積み荷( →北陸・上方などで売った品)>

  肥料−( 12 )の原料である鰯(イワシ)など。
  食料−海産物(干鯛、いりこ、昆布など)

 <北陸・瀬戸内・上方での積み荷( →蝦夷地などで売った品)>

  衣料、食料(米、小豆、塩、醤油、茶など)、雑貨、燃料、建材


・(● 13 )
  − 尾張国知多郡を拠点とし、南海路を往来、
   対岸の伊勢国の港湊(こうしん)、瀬戸内などにも進出。
   「尾州廻船」とも呼ばれた。

   <瀬戸内・上方での積み荷(→江戸などの関東で売った品)>
  食料・燃料・肥料など

 <伊勢湾岸での積み荷→江戸などの関東で売った品)>
  衣料(木綿)、食料(米、酒)、肥料(糠{ぬか})

 <瀬戸内・上方での積み荷(→伊勢湾岸で売った品)>
  衣料(綿)、食料(塩、砂糖、松前昆布)、
  肥料(蝦夷地産鰊、西国〆粕)

 <関東での積み荷(上方や伊勢湾岸で売った品)>
  食料(関東大豆・奥州大豆)、肥料(関東干鰯・奥州〆粕)など。


・奥筋廻船
  −陸奥の石巻などを拠点とし、
   蝦夷地・東北各地・関東を往来した。
・出雲崎船
  −越後国出雲崎を拠点とし、
   廻船数は近世初期に75艘、
   中期には減少させたが
   後期には81艘(200人余が従事)を数えた。

・岡山藩内の廻船
  −「江戸行」船のほか
  「江戸不行」船(江戸中期に50艘を数えた)が
   各地を往来した。

・紀州廻船
  −19世紀前半、幕府の命で菱垣廻船の支配下に置かれた。
   菱垣廻船の強化をはかるためであった。


11.188下▲北前船(キタマエ ブネ)
12.184 干鰯(ホシカ)
  13.188下●内海船(ウツミ ブネ)





(2009/06/17(水))


日本史2



●( )を埋めよ。
○手工業生産の変遷

・農業の余暇を利用した手工業生産
 →(● 1 )工業−いざり機(ばた)など
 がみられた。

・都市や近隣町の商人による(1)工業の利用
 −原料などを前貸しして生産させ、
  生産品を一括購入した。
  農家には手間賃などを支払った。
  →(● 2 )工業

・農村を基盤に商業活動を展開した(● 3 )や
 都市商人らが、
 労働者(農家の女性など)を
 工場内の分業・協業による手工業生産に従事させた。
  →( 4 )<マニュファクチュア>

○主な名産品と産地

・織物

(● 5 )−河内、尾張、久留米(絣{かすり})
(● 6 )−京都西陣、桐生、足利

・染料

(● 7 )−阿波
(● 8 )−出羽(最上地方)

・醸造

( 9 )−灘、伏見、伊丹、池田
( 10 )−野田、銚子、京都、竜野

・工芸

(● 11 )−有田(伊万里)、京(清水)
(● 12 )−南部、会津、輪島

・製紙

 鳥の子紙−(● 13 )、杉原紙−(● 14 )


186●1.農村家内 212●2.問屋制家内 211 l5●3.在郷商人 212 4.工場制手工業
185上,186●5.木綿 185上,186●6.絹 〜付則: 高機(タカバタ)186
●7.藍(藍玉) ●8.紅花  187 9.酒  187 10.醤油
185上,186〜187●11.陶磁器 185上●12.漆工芸 185上●13.越前 185上●14.播磨




(2009/06/09(火))

日本史2



   ●正誤問題
     江戸時代の金貨は、秤量貨幣であった。



189 190●×


  → 秤量貨幣は、金貨ではなく銀貨であり、190
   金貨は計数貨幣である。189

      (2003年度追試験 第4問 問6)

(2009/06/09(火)・2009/08/22(土))

日本史2



●〜民衆運動〜

●江戸時代の民衆支配

「全ての人びとが
自分の能力を最大限に活かす事の出来る社会」を
理想社会と仮定した場合、
現代の日本も、雇用問題や様々な差別が
存在していることを考えあわせると、
いまだ達成されているとは言え無いように思います。
視野を世界に広げても、
国家(社会主義、軍事政権など)のイデオロギーが人民の生活を
制約しているケースがあります。

 江戸時代もこの視点で見ると、
人民の身分・職業を原則として固定させた事、
キリスト教や海外移住等を禁止した事(鎖国)等、
上記の理想に反する政策がとられた時代だと言えます。

●民衆の抵抗

 江戸時代の封建支配に対する
民衆の運動を大きく分けると、
百姓一揆などの積極的な抵抗と、
学問・文学における人間性の追求や
人間平等の主張などの消極的な抵抗があります。
 江戸幕府の保護する儒学(朱子学派)に対する批判として
発展した国学や、
鎖国体制のもとにあって
西洋学問を追求した洋学なども後者に含める事ができます。

 しかし、日本における近代国家の建設は、
民衆の民主化運動によるものではありませんでした。
幕府や藩の支配が前号で取りあげた、
「百姓成立(本百姓の維持など)」の政策や
殖産興業策に対して、
一揆を起こした百姓らもその支配を受け入れ、
日々の生産活動に再び従事したのでした。
日本史2



<近世の民衆運動>

◎いわゆる「百姓一揆」

○近世初期−太閤検地などに反対した国人・地侍主導の一揆。
・キリシタン一揆として名高い1637年発生の( 1 )も、
 地侍・百姓層の一揆としての性格もあった。

○近世前期

 −藩政の不満に対して村役人らが代表となって
 幕府など上級機関に(● 2 )を行ったとされている。
 このため処刑された村役人として知られる、
 下総国(今の千葉県)の義民(▲ 3 )については、
 史実ではなく、
 江戸後期に創作された伝承とする説が有力である。

○近世中期以降

 −多くの村民が参加した(● 4 )一揆がしばしば起きた。
  これが藩内の全域に及んだ場合、
  (● 5 )と呼ばれた。
日本史2

1.島原の乱 173 ●2.越訴 201 ▲3.佐倉惣五郎 201下
●4.惣百姓 202 ●5.全藩一揆

日本史2




※ 幕府が禁じた「一揆」とは?

 江戸幕府が禁止した百姓一揆の定義づけを考える際、
 明治新政府が政権発足後に示した
 「五榜の掲示」の次の規定が参考になる。

 「何事によらず宜(ヨロ)しからざる事に
 大勢申合せ候(ソウロウ)を徒党と唱え、
 徒党して強(シイ)て願び事企(クワダテ)るを強訴といい、
 あるいは・・(略)堅く御法度たり。」

→民衆が(▲ 6 )を組んで
 集団で暴力を背景に幕府・藩に訴え出る、
 ( 7 )は禁じられていた。
 江戸時代では、その首謀者は極刑(死罪)に処せられた。
 ただし、適切な手続きで訴願した(2)や、
 19世紀前半に大坂の周辺村落が
 大坂の特権商人らを幕府に訴えた(● 8 )などは
 合法的な訴願とみなされた。
日本史2

▲6.徒党 7.強訴 82 ●8.国訴(クニソ)

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○近世後期・幕末期
・新しい時代の到来を期待する(● 9 )一揆もみられた。

◎小百姓らによる運動(いわゆる「騒動」「騒擾(ソウジョウ))
・(● 10 )−上層農民の村政主導に対する民主化運動。
・(● 11 )−質流れ禁止令をめぐる質地取り戻しの運動。
・(● 12 )
 −米を買い占めた商人らに対して起こした。
  一揆とともに起きることもあった。
  「天明の(●12)」は 田沼意次の失脚を
  早める原因にもなった。
日本史2

●9.世直し 235
●10.村方騒動(ムラカタ ソウドウ) 200
●11.質地騒動 ●12.打ちこわし 203,235

日本史2



<一揆の事例>
  伊勢国亀山藩明和の百姓一揆(1768年)

・伊勢国亀山藩(支配地は
 今の三重県亀山市・鈴鹿市のそれぞれ一部。5万石)は
 藩財政の再建をはかり、
検地による租税対象の田畑を増やそうとした。
・当時、藩の御用商人が
 米の買い占めにより利益を得ていた事にも
 不満を持っていた百姓ら(首謀者は庄屋層)は
 領内83か村に呼びかけて蜂起した。
 ※ 庄屋は西日本における名主の呼び名。
・蜂起するときの呼びかけ状(ふれ書)には、
 15歳から60歳までの男子が
 指定の場所に集まる事、古い「みの笠」を着用し、
 生竹(ナマタケ)に所属する村の名を書いた紙を付ける事、
 村ごとに鉈(ナタ)、鎌、のこぎり、斧、
 鎚(ツチ)等を持参する事などが記載されていた。
・一揆勢数千人は、
 検地に関係した庄屋(ショウヤ)や御用商人の家をこわし、
 亀山城下に迫った。
・藩は武力鎮圧をあきらめ、
 城下町近くの河原で一揆の代表者と会見し、
 一揆側の要求をほぼ受け入れることを約束し、
 一揆をしずめた。
 多くの百姓はそれぞれの村に帰還した。
・2年後、藩は一揆の首謀者で入牢していた3名を
 河原で処刑(打首)にした。
 これは一揆が起きた時に
 藩主が参勤交代で江戸にいたため、
 決裁に時間がかかったことによる。
・処刑されたうちの一人、
 真弓長右衛門(伊船村庄屋)の命日には、
 その後長く領内の村々で
 冥福を祈る儀式(百万遍の念仏、むしろをたたく等)が
 行われた。

(2009/06/05(金))


日本史2



   ●正誤問題
     塙保己一が、
    幕府の保護のもと 和学講談所を設けて、
    暦象新書 の編纂を行った。



216下 217右 218●×


  → 塙保己一(ハナワ ホキイチ)が編纂したのは
   群書類従(グンショ ルイジュウ) である。 216下 217右

  → 暦象新書(レキホウ シンショ) は、
   オランダ通事(ツウジ)の 志筑忠雄(シヅキ タダオ)が
   翻訳したものである。 218

      (2002年度本試験 第4問 問3)


(2009/06/01(月))

日本史2



   ●〜幕藩体制の機構と人民〜 ( )内語句を埋めよ。

0.はじめに

 日本史の「封建制度」という名称は、
中世ヨーロッパのフューダリズム
(皇帝・国王などの上級領主が
国王・諸侯・騎士らの下級領主に
土地支配権を与えることで
主従関係を成立させていること)に
当てはめて名づけられたものです。
 難解な文章で表現すると、
「封建制度とは、
土地支配権を媒介(ばいかい)とする
主従関係にもとづく制度」となります。

 日本史の時代名でいえば、
鎌倉〜室町・戦国時代(中世、前期封建時代)と
織豊・江戸時代(近世、後期封建時代)の、
いわゆる武家政権の時代に相当します。

※ 前期から後期の過渡期でもある戦国時代については、
 後期封建時代(近世)に含むとする見解もあります。

●日本の歴史区分

・前期封建時代(12世紀末〜15世紀)
 天皇・上皇が
 鎌倉・室町の両幕府の首長(将軍)に
 全国支配を委任。
 将軍は、守護に諸国の行政業務を、
 地頭に諸国の荘園・公領(村落単位)の支配を委任。

・後期封建制度(16世紀〜19世紀)
 太閤検地(16世紀末)で荘園は一掃され、
 石高制・一地一作人の原則が確立された。
 朝廷(首長は天皇)の事実上の支配権を吸収した
 江戸幕府(首長は将軍)が、
 大名(藩主)らに土地支配権
 =領知を授与・承認することで
 主従関係を成立させた。
 大名もまた、武士層(藩士)らに
 領知を授与・承認することで
 主従関係を成立させた。

1.江戸幕藩体制の基本

●幕府と藩(将軍と諸大名)

・江戸幕府の将軍は、
 臣下の諸大名に(● 1 )を発行し、
 土地(領地)支配=領知を 授与・確認した。
 −日本全国の土地・人民を、
 幕府(将軍)と「三百諸侯」
 とよばる300弱の諸大名(藩主)が支配した。
 大名は(● 2 )石以上の領知を承認されたもので、
 最高は「加賀国金沢百万石」
 と称された( 3 )氏であった。
179●1.領知宛行状(リョウチ アテガイ ジョウ)


●2.1万


152 3.前田


・諸大名(藩主)は、
 臣下の藩士に領知を授与・承認して
 臣属させる地方知行制から、
 次第に土地(農村)から切り離し、
 俸禄米を支給する(● 4 )制を
 とるようになった。
  薩摩藩などの外様大藩では、
 土地(農村)に密着した(● 5 )と
 呼ばれる藩士も多かった。
164●4.俸禄


●5.郷士

→ 江戸幕府創設直後に
 伊勢国・安濃津(あのつ)藩主となった(● 6 )氏
 <初代藩主は高虎>の子(2代藩主)は、
 1657年(明暦3)に示した基本政策で、
 「殿様(藩主)は当分の御国主、
 田畑は公儀(幕府)の田畑」
 と明言した。

●6.藤堂

 この文言は、
諸大名(藩主)が幕府(将軍)の代理で
土地・人民を支配する立場であるという認識を示す
(いわゆる「大名=鉢植え」)有名な文言として
知られている。
と同時に、幕府の権威を背景に
諸大名(藩主)が支配領域(藩)を
一元的に領地(藩)・人民を支配する宣言でもあった。
 事実、安濃津藩(津藩)は 上記の明言ののち、
田畑調査・租税負担者の確定など、
村落に対する支配権を強化した。

●諸大名の統治姿勢

・石高制を基本とする江戸時代(近世)において、
 幕府や諸大名は、
 年貢負担者である(● 7 )の維持
 <「百姓成立(ひゃくしょうなりたち)>につとめた。
 凶作・飢饉時には年貢の減免、金銭・米(種もみ)を
 農民に供出するなどの撫民(ぶみん)・救済策を行った。

166●7.本百姓

→領内支配の失敗、一揆などの多発は、
 幕府による領地没収(改易)などの
 処分の要因にもなった。

・農業の豊凶や商業・貨幣経済の広がりの中で
 没落する農民が生まれる一方で、
 彼ら没落農民の土地を買い取って成長した有力農民は、
 地主・豪農・(● 8 )商人などと呼ばれて成長した。

211L5●8.在郷

→ 土地の売買は、
 1643年(● 9 )禁止令で禁止されていたが、
 表向きは「質流し(質流れ)」の形をとって進行した。
  こうした階層分化は、
 年貢納入などに支障がない限り
 幕府・藩も黙認した。
  幕府や藩は、
 新田開発・水利土木事業を請負って
 功績をおさめた有力農民や
 商人を武士に昇格させ、
 藩政・地方行政に参画させることもあった。

168●9.田畑永代売買

  江戸時代中期以降、
 没落する農民の増加にともない、
 幕府が質流れを禁止したり、
 有力農民から没収した田畑を均等に
 農民に割り当て直す(● 10 )化を
 模索する藩もあった。
  幕末期では肥前(佐賀)藩が
 (●10)制を企てた(不成功)ことで知られる。
 (上記の津藩の場合、
 18世紀末に(●10)制を断行しようとして
 激しい百姓一揆をまねいた。)
213●10.均田 ・・・補足:佐賀(備前)藩 藩主 鍋島直正(ナベシマ ナオマサ)による 均田制(キンデン セイ)

→ 基本的に百姓の商品作物栽培は
 (▲ 12 )で禁止されていたが、
 窮乏を解決するためにとった商品作物の栽培は
 次第に黙認され、有名無実化した。
  18世紀後期以降、
 諸藩が特産品の生産・販売を独占する
 (● 13 )が広がった。

※ 有力農民の代表例である出羽国の本間家は、
 出羽の特産品(● 11 )の生産を
 主導した豪農(豪商)で、
 藩とも結んで土地集積(兼併)を行い、
 幕末維新時に1500町歩
(およそ4キロ×4キロの面積)の田畑を所有した。
●11.紅花


168▲12.田畑勝手作りの禁


●13.専売制(藩営専売制)


(2009/05/31(日))



日本史2



   ▲正誤問題
     熊沢蕃山は主著『 広益国産考』の中で
    行き過ぎた領主の新田開発を戒めた。



184下▲×


  → 熊沢蕃山が著したのは『大学或問』であり、
   『広益国産考』は大蔵永常が著した。

   → 大蔵永常 :  広益国産考、農具便利論(ノウグ ベンリロン) 184下
   → 熊沢蕃山 : 大学或問(ダイガク ワクモン) 193下
      (2002年度本試験 第4問 問1)


(2009/05/30(土))

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   ●江戸幕政史〜概観〜 ( )内語句を埋めよ。

1.概観

 江戸時代は、米の生産量にもとづく
石高制(こくだかせい)を基盤に、
幕府(将軍)・藩(大名)が
全国の人民・土地を支配した時代で、
幕藩体制または大名領国制などと呼ばれています。

○「幕藩体制」→幕府と藩が全国の土地・人民を支配した体制。
・「幕(幕府)」−首長は将軍(征夷大将軍)
 −首都の江戸(現在の東京)を政庁とし、
 徳川家康の子孫が就任(襲職)。
(a)初代(1代)〜7代−家康3男秀忠の子孫が就任。
  (1家康・2秀忠・3家光・4家綱
   ・5綱吉・6家宣・7家継)
(b)8代〜14代−家康の曾孫・吉宗の子孫が就任。
  (8吉宗・9家重・10家治・11家斉
   ・12家慶・13家定・14家茂)
(c)15代−家康の子孫の水戸家出身の慶喜が就任。
  ・「藩」−首長の諸大名(藩主)
   −約300に区切られた領土の統治を将軍から
 委任され、いわゆる「300諸侯」と呼ばれた。
 彼らは、将軍を護衛する防波堤
  =垣根の意味をもつ「藩」を支配。

2.幕政史

(1)前期(17世紀初頭〜18世紀初頭)

(a)武断政治−徳川家(将軍家)が
 巨大な軍事力を背景に諸大名を威圧。
 1.家康−関ヶ原合戦(1600年)で
  豊臣系諸大名を支配下に置いた。
 2.秀忠−大坂の役(1614〜15年、豊臣家滅亡)以後、
  将軍権力を一元化させた。
 3.家光−祖父(家康)・父(秀忠)の偉業を継ぎ、
  幕政の基礎を樹立した。
 → 徳川家支配を脅かす有力諸大名(豊臣系大名)を
  積極的に取りつぶした。
   領知(地)没収=(● 1 )、
   領地削減=(● 2 )、
   国替え=(● 3 )
219下●1.改易(カイエキ)  219下●2.減封(ゲンポウ) ●3.転封

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(b)文治政治−法・制度・学問( 儒学朱子学派)による支配を追求した。
 4.家綱−1651年発生の(● 4 )を機に武断政治の転換をはかった。
 5.綱吉−武断政治を極度に排除した。
  (● 5 )の創設−儒家の(● 6 )を大学頭に任命し、管掌させた。
  ( 7 )−極度な動物愛護令として知られる。
 6.家宣−老中(● 8 )、侍講の 儒学朱子学派の学者( 9 )を登用。
 7.家継−幼年で死去。秀忠・家光の子孫は断絶。

179●4.慶安の変(由井正雪の乱)  180●5.湯島聖堂 180●6.林信篤(鳳岡) 180〜181 7.生類憐みの令 182●8.間部詮房(マナベアキフサ)  9.新井白石 ・・・補足:正徳の治

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(2)中期(18世紀)
     −社会の変化に応じた武家政権を追求した。

 8.吉宗−彼が断行した改革を( 10 )という。
  (● 11 )−有能な幕臣を登用する事を目的とした。
  (  12 )−諸大名に米穀を献上させ、
        幕府財政の強化をはかった。
  (● 13 )−刑閥の基準を定めるために制定(編纂)。
  (● 14 )−町人の財力を利用して
         耕地の拡大をはかった。

 9.家重−側近(側用人)大岡忠光が補佐。

10.家治−側用人(のち老中)の(● 15 )が補佐。吉宗の政策を継承。
   町人資本による印旛沼・(  16 )などの干拓をすすめた。
   初の計数銀貨(● 17 )を鋳造。
11.家斉−初期は老中首座(▲ 18 )による寛政の改革

  (▲ 19 )−凶作時の米穀備蓄を命じた。
  (● 20 )−高利貸し業者(● 21 )に
        旗本・御家人に対する債権を 放棄させた。
  (● 22 )−無宿人の社会更生をはかった。
   →改革後も「寛政の遺老」らが政策を継承。
   →大御所として放漫政治に転じた。(19世紀初期)

197 10.享保の改革 197下●11.足高の制
198 12.上米 199●13.公事方御定書
199●14.町人請負新田 203●15.田沼意次
203 16.手賀沼 203下●17.南鐐弐朱銀(ナンリョウ ニシュギン)
204▲18.松平定信 204▲19.囲米 204●20.棄捐令(キエンレイ)
204●21.札差 204●22.石川島人足寄場 ・・・ 補足:さらに 204 旧里帰農令(キュウリキノウレイ)

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(3)後期(19世紀)
   −「内憂外患」に対処しつつ、幕府の威信は低下。

12.家慶−老中首座(▲ 23 )による天保の改革。
  (● 24 )−江戸に流入した貧民を強制的に帰郷させた。
  (  25 )解散令−物価の調節をはかったがかえって混乱。
  (● 26 )−江戸・大坂周辺の直轄領強化をはかったが失敗。
  (● 27 )−異国船打払い令(1825年)からの転換(緩和)
   →ペリー来航(1853年)の動揺の中で将軍死去。

13.家定−開国に直面。
  1854年:(● 28 )−他の4カ国とも調印。
  1858年:(● 29 )−大老(  30 )が主導。

14.家茂−朝廷との交渉や長州藩との対決に翻弄。
  ( 31 )との結婚−「公武合体」の象徴。
  1862年:文久の改革−薩摩藩主の父( 32 )が主導。
  1863年:将軍上京。「攘夷決行」、八月十八日の政変。
  1864年:池田屋事件、禁門の変。第1次長州征討。
  1866年:薩長同盟、第2次長州征討。
       将軍、大坂で死去。

15.慶喜−1867年に大政奉還を断行。
      討幕派の機先を制したが、
     2ヵ月後の王政復古の大号令・小御所会議で
     新政権から排除された。

210▲23.水野忠邦 211●24.人返しの法 211 25.株仲間 211●26.上知令
208●27.天保の薪水給与令
    ・・・補足:1925(文政8)年 異国船打払令(イコクセン ウチハライ レイ/無二念打払令(ムニネン ウチハライ レイ))
        → 1937(天保8)年 モリソン号事件 : アメリカ商船モリソン号を撃退させた
        → 1938(天保9)年 渡辺崋山「慎機論(シンキロン)」、高野長英「戊(ボ)ジュツ夢物語」
        → 1939(天保10)年 蛮社の獄(バンシャ ノ ゴク) 208
228●28.日米和親条約 229●29.日米修好通商条約 229 30.井伊直弼
232▲31.和宮 232 32.島津久光

(2009/05/24(日))

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   正誤問題
     江戸時代の中期以降に発達した藩校は、
    庶民の子女の教育機関であった。



219 ×


  → 庶民の子女の教育機関は寺子屋であり、
   藩校は藩士の子弟の教育機関である。

      (2002年度追試験 第4問 問2)


(2009/05/23(土)・2009/09/18(金))



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   ●江戸時代の朝廷と幕府についての 穴埋め問題

  以下の( ) 1〜6 それぞれに 適語を 入れよ。

1627年:(● 1 )事件が起こる。
1629年:(● 2 )天皇が退位し、
    (● 3 )天皇が即位。
17世紀後半:5代将軍綱吉、
     大嘗祭(だいじょうさい)など
     朝廷儀礼を再興した。
1710年:幕府(新井白石が参画)が
     新たに(▲ 4 )家を創設させた。
1762年:江戸時代2人目の女帝(● 5 )天皇が即位。
1771年:閑院宮家兼仁親王が即位=(● 6 )天皇。
1791年:(6)天皇が 父の典仁親王に
     「太上天皇」の尊号を与えようとし
     て幕府(松平定信政権)と対立
     (尊号一件、尊号事件)。



165●1.紫衣事件
165●2.後水尾
165●3.明正(メイショウ)
182▲4.閑院宮
●5.後桜町
205●6.光格


 江戸時代の朝幕関係は比較的友好を保ちます。
3代将軍家光以後の将軍の正室は、
皇族や五摂家(近衛・鷹司・一条・二条・九条)から
迎えるのが定例で(篤姫のように養女扱いを含む)、
15代将軍の生母は皇族(宮家の親王の娘)でした。
 その一方で、権威=天皇、権力=幕府という矛盾は、
1853年のペリー来航以後表面化し、
幕末の混乱を招くことになりました。
近年では、「政治的に発言しはじめた天皇」として、
閑院宮家から即位した
光格天皇(幕末の孝明天皇の祖父)が
注目されています。


(2009/05/07(木))


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   ●正誤問題
     亜欧堂田善は、西洋画を修得した。



222●○


  → 蘭学の隆盛→西洋絵画の技法・・・油絵の具
     油絵
       平賀源内(ヒラガ ゲンナイ)
       司馬江漢(シバ コウカン)
       亜欧堂田善(アオウド デンゼン)。222

      (2001年度本試験 第4問 問2)


(2009/05/03(日))



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   正誤問題
     江戸時代、末次平蔵が新たな水路として
    高瀬川などを開削した。



188 ×


  → 高瀬川などを開削したのは、角倉了以である。
     末次平蔵、角倉了以は朱印船貿易家である。

      (2002年度本試験 第4問 問4)


(2009/04/28(火))


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   ●正誤問題
     式亭三馬は、
    世相などを風刺した川柳が流行する中で、
    誹風柳多留 を編集した。



216 215上●×


  → 誹風柳多留(ハイフウ ヤナギ ダル) を編集したのは
   柄井川柳である。215上

      (2002年度本試験 第4問 問5)


(2009/04/28(火))


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   ●正誤問題
     江戸時代、地引網を用いた
    九十九里浜のカツオ漁が行われ、
    魚肥生産が拡大した。



184●×


  → 九十九里浜の地引網ではイワシ漁が行われた
     網漁
       中世末以来、摂津・和泉・紀伊などの
      上方(カミガタ)漁民によって全国に広まる。
       →上総九十九里浜の地曳網(ジビキ アミ)による鰯漁(イワシ リョウ)、
        備前五島(ゴトウ)の鮪漁(マグロリョウ)、
        松前の鰊漁(ニシン リョウ)
       → 特に、いわし や にしん は
        綿作など商品作物生産に欠かせない
        干鰯(ホシカ)・〆粕(シメカス)などに加工され
        上方をはじめ 各地に出荷された。
       → この他、瀬戸内海の鯛(タイ)、
        土佐の鰹(カツオ)などの釣漁(ツリ リョウ)、
        網や銛(モリ)を駆使する
         紀伊・土佐・備前・長門などの捕鯨(ホゲイ)、
        蝦夷地における 昆布(コンブ)や俵物(タワラモノ)の生産等。184

      (2002年度本試験 第4問 問1)

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   ● 田畑永代売買の禁止が解除された年(西暦)は?


168●1872年


  → 1643(寛永20)年 田畑永代売買の禁令(デンパタ エイタイ バイバイ ノ キンレイ)、
    1673(延宝(エンポウ)元)年 分割相続による田畑の細分化を防ぐ為に
   分地制限令(ブンチ セイゲン レイ) を出した。
    田畑では たばこ・木綿(モメン)・菜種(ナタネ)などの
   商品作物を自由に栽培する事を禁じたりした。
   これを 田畑勝手作りの禁(デンパタ カッテ ヅクリ ノ キン)と言う。168
  → のち 田畑永代売買の禁止の解除で
   土地の自由売買が可能になった。


(2009/03/09(月))


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   ▲正誤問題
     江戸時代に発達した綿織物業の特産物として
    久留米絣や小倉織がある。



185上▲○


  → 江戸時代 主な名産物
     織物
      絹
       西陣織・桐生(キリュウ)絹・伊勢崎(イセサキ)絹・
       足利(アシカガ)絹・丹後縮緬(チリメン)・上田紬(ツムギ)
      木綿
       小倉織・久留米絣(クルメガスリ)・有松絞(シボリ)(尾張)・
       尾張木綿・河内木綿
      麻
       奈良晒(サラシ)・越後縮(チヂミ)・
       近江麻(蚊帳(カヤ)など)・薩摩上布(ジョウフ)
     陶磁器
      有田焼(伊万里(イマリ)焼)・京焼(清水焼)・
      九谷焼・瀬戸焼・備前焼
     漆器
      南部塗(ヌリ)・会津塗・輪島(ワジマ)塗・
      春慶(シュンケイ)塗
     製紙
      日用品
       美濃・土佐・駿河・石見・伊予・
      高級紙
       越前の鳥ノ子紙・奉書紙・美濃紙・
       播磨の杉原(スイバラ)紙
     醸造
      酒
       伏見・灘・伊丹(イタミ)・池田
      醤油
       野田・銚子・京都・竜野(タツノ)

      (2001年度本試験 第1問 問5)

(2009/03/07(土))


日本史2



   ●正誤問題
     享保改革期に、
    過去数年間の平均年貢量を基準に年貢率をきめる
    検見法が採用された。



167下 198●×


    → 検見法ではなく定免法(ジョウメン ホウ)である。
     検見法(ケミホウ)とは,一部を刈り取り、
     収穫状況から税率を決める方法である。
      (2002年度追試験 第1問 問3)
    → 年貢率(免(メン)と呼ぶ)は
     その年の収穫に応じて決める 検見法(ケミ ホウ)と
     一定期間は同じ率を続ける 定免法(ジョウメン ホウ)
     とがあった。167下
     → なお,以下 問題解説も参照↓

(2009/02/10(火))



日本史2



   正誤問題
     金銀貸借についての争いが続発したため、
    江戸幕府は相対済し令を出し、
    貸借に関する訴訟を受け付けず、
    当事者間で解決させることにした。



198 ○


    →● 8代将軍 徳川吉宗
       田中丘隅(タナカ キュウグ),荻生徂徠(オギュウ ソライ),
      室鳩巣(ムロ キュウソウ)らを
      侍講(ジコウ)に招く。197
     → 享保の改革の中心は財政の再建にあった。
       1719(享保4)年 続発する金銀貸借についての争い
      (金公事(カネ クジ))を幕府に訴訟させずに
      当事者間で解決させる為に出したのが
      相対済まし令である。198
       上げ米
       定免法(ジョウメン ホウ)←検見法を改めた
       新田開発(シンデン カイハツ)
       漢訳洋書(カンヤク ヨウショ)の輸入制限を緩める等 実学重視姿勢へ
       町火消(マチ ビケシ)
       評定所(ヒョウジョウ ショ)に目安箱(メヤス バコ)
       小石川養生所(コイシカワ ヨウジョウショ)
       公事方御定書(クジカタ オサダメガキ) 199
      (2003年度本試験 第1問 問4)

(2009/02/09(月))

日本史2



   正誤問題
     徳川吉宗が野呂元丈らに
    英語を学ばせたことを契機に、
    蘭学が芽生えた



217 ×


    → 蘭学とはオランダの学問の事であるので、
     正せば,英語ではなく,オランダ語である。
      8代将軍徳川吉宗は
     漢訳洋書の輸入制限を緩めると共に
     青木昆陽・野呂元丈らに
     オランダ語を学ばせたので
     洋学は蘭学として発展したのである。217
      2002年度本試験 第4問 問3

(2009/01/23(金))



(2009/02/09(月))


日本史2



  ▲ 正誤問題
     山崎闇斎は、
    土佐で起こった朱子学の一派である、
    折衷学派の流れをくんでいる。

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193,193下▲×


    → 元禄時代の 山崎闇斎(ヤマザキ アンサイ)・野中兼山(ノナカ ケンザン)らは
     戦国時代 土佐の 南村梅軒を祖として
     江戸時代 谷時中に受け継がれた、
     海南学派(カイナン ガクハ)(南学(ナンガク))の流れを組んでいる。
     ちなみに これは 朱子学(シュシ ガク)の一派である。
      特に、山崎闇斎は 神道を儒教流に解釈して
     垂加神道(スイカ シントウ)を説いた。193
     ここで垂加(スイカ)とは闇斎の別号の事。
     闇斎一門の崎門学(キモンガク)は,
     尊王論(ソンノウ ロン)の根拠となった。193下
      折衷学派は儒学の一派である。
     → なお,儒学(ジュガク)は
      室町時代に五山(ゴザン)の禅僧が
      学んでいた朱子学を中心に
      寛永期(1624〜1643年)に盛んになったものである。
      朱子学は,君臣(クンシン)・父子(フシ)の別をわきまえ
      上下の秩序を重んじる学問であった為,
      幕府や藩に受け入れられた。
      京都相国寺(ショウコク ジ)の禅僧であった藤原惺窩(フジワラ セイカ)は
      還俗(ゲンゾク)して朱子学等の啓蒙に努めた。
      門人の林羅山(ハヤシ ラザン)(道春(ドウシュン))は
      徳川家康に用いられ、林羅山の子孫(林家(リンケ))は
      代々儒者(ジュシャ)として幕府に仕えて、
      学問と教育を担った。177

     → これに対して、
      江戸幕府から警戒された学問についての詳述はこちらに譲る
       2001年度本試験 第4問 問5

(2009/01/22(木))



日本史2



    石見国は 次のうち
   古代の行政区画でどこに属したか。
      西海道,北陸道,山陰道,山陽道


表) 山陰道





日本史2



  ● 江戸時代の銀貨は秤量貨幣だったが、
   田沼意次が計数貨幣として
   鋳造させた貨幣は何か。



203,203下●南鐐弐朱銀(ナンリョウ ニシュ ギン)

   → 1772(安永元)年から
    大量に鋳造されたもの。
    南鐐とは 上質な銀の事であるが
    金2朱として通用した。203下



日本史2



  ▲ 次のうち、江戸時代に
   銀が採掘された鉱山として
   適切でないものを どれか一つ選ぶと?

     生野,別子,大森,院内



185下▲別子


   → 別子・足尾・阿仁は 銅山
   → なお、大森・生野・院内は 銀山
   → また、佐渡の相川は 金山・銀山


    →  銀関連事項(1)
    →  銀関連事項(2)
    →  銀関連事項(3)
    →  銀関連事項(4)
    →  銀関連事項(5)
    →  銀関連事項(6)


(2009/01/14(水))

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 △正誤問題
   藤田東湖らに代表される水戸学は、
  尊王攘夷運動に大きな影響を与えた



  → (2001年度本試験 第4問 問3)


220,220下 ○



(2009/01/10(土)・2009/08/01(土))

日本史2



 △正誤問題
   大名は領民の数に応じて、
  将軍への軍役をつとめた



  → 領民の数ではなく石高である。

153(安土桃山時代〜)×

日本史2



 ●正誤問題
   江戸幕府の一橋家は、
  徳川秀忠の息子が興した家である



  → 一橋家は、徳川家康の息子であり、
   水戸藩藩祖である徳川頼房が興した家である。
  → 田安家 徳川吉宗の3男 徳川宗武(ムネタケ)
    一橋家 徳川吉宗の4男 徳川宗タダ
    清水家 9代将軍 徳川家重の 次男 徳川重好(シゲヨシ)

199▲×




(2009/01/02(金))


日本史2



 ●正誤問題
   江戸時代、『聖教要録』を著した新井白石は、
  朱子学を批判した


181〜182 194 194下●×

  → 聖教要録の著者は 山鹿素行であり、
 古学派の儒学者で兵学者でもある。

194 194下

 新井白石は
 6代将軍徳川家宣、
 7代将軍家継の時代に
 正徳の治を行なった。

181〜182 ×


(2009/01/01(木))


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