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日本史  全体1

全体2





●●●日本史受験重要事項行政史
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 〜日本史受験重要事項〜行政史1〜

1.古代

・埼玉県(● 1 )古墳出土の鉄剣銘や
 熊本県(● 2 )古墳出土の鉄刀銘から、
 5世紀後半に軍事を担当する、
 「杖刀人の首(ジョウトウジンノオビト)」や
 文書などを担当する「典曹人(テンソウジン)」などの官職が
 存在したことが分かる。
・『日本書紀』所収の「改新の詔」に記された「郡」は、
 大宝律令制定までは、
 「(▲ 3 )」の文字を用いていたことが、
 藤原京などから 発掘された木簡によって
 明らかにされている。
・桓武天皇は、国司の不正防止のため、
 その交代時の引継文書を監査する(● 4 )を設置した。
・平安時代中期以降、
 最上級の国司は(● 5 )と呼ばれた。
 彼らの中には都に居住するものも見られた。
 こうした勤務形態を(● 6 )という。
 → 従来の教科書は、
 現地に赴任した国司を「(5)国司」、
 都に在住した国司を「(6)国司」としていましたが、
 近年では上記の記述が一般的になっています。


24上,27●1.稲荷山  27●2.江田船山
33▲3.評(コオリ)  52●4.勘解由使(カゲユシ)
70●5.受領(ズリョウ)  70●6.遥任(ヨウニン)





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2.中世〜織豊

・鎌倉幕府の成立を1184年とする説の場合、
 公文所・(● 7 )の設置が
 その根拠の一つとされている。
 → 神奈川県立金沢文庫の展示室の年表も
  鎌倉幕府成立を同年としています。
・元寇後、九州の防衛と統轄のため、
 幕府は筑前に(● 8 )を設置した。
・鎌倉幕府の(▲ 9 )の職掌は
 御家人の統制が中心だったが、
 室町幕府の(9)の職掌は
 京の市政・警察業務が中心になっていった。
・明智光秀の先祖とされる美濃の明智氏は、
 足利将軍と主従関係を結んだ、
 直属の家来である(● 10 )とされている。
・豊臣政権は秀吉独裁型であったため
 中央機構は整備されなかったが、
 豊臣秀吉の晩年に
 有力外様大名からなる( 11 )と
 直属の家臣からなる五奉行が置かれた。
 →(11)は、徳川家康・前田利家(死後、子の利長)・
  宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景(彼の死後、上杉景勝)。


90●7.問注所  90下●8.鎮西探題
90,90下▲9.侍所  119●10.奉公衆
152 11.五大老





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3.近世

・江戸幕府の幕政は、
 臨時に最高職の( 12 )が置かれた時以外は、
 老中(老中首座)が統轄した。
・江戸幕府は、京都に(● 13 )を置いて
 朝廷や西日本大名を監視させた。
 → 名前は、室町幕府の(9)の長官名に由来。
・将軍と老中との間の連絡・調整役として
 (▲ 14 )が置かれることもあった。
 柳沢吉保、間部詮房、大岡忠光、
 田沼意次、水野忠成などが有名である。
・8代将軍の時、目安箱への意見から
 小石川に(▲ 15 )が置かれた。
・寛政の改革の時、
 石川島に更生機関として(▲ 16 )が置かれた。
・大塩平八郎の乱は、
 大坂に置かれた(● 17 )の軍勢によって鎮圧された。
 →この時の(17)は
 下総国古河(コガ)藩主の土井利位(ドイ トシツラ)で、
 その家老として鎮圧の陣頭指揮にあたったのが
 洋学者・鷹見泉石(タカミ センセキ)でした。
 友人・渡辺崋山(カザン)による肖像画で有名です。


163上,180 12.大老  163●13.京都所司代
180,182,202▲14.側用人  199▲15.養生所(ヨウジョウショ)
204▲16.人足寄場(ニンソクヨセバ)  163上●17.大坂城代






(2009/09/21(月))



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 〜日本史受験重要事項〜行政史2〜

4.近代

・明治初期に北海道開発・統治の機構として置かれた
 (● 18 )は
 1882年に廃止され、
 根室・函館・札幌の3県を経て、
 1886年北海道庁が設置された。
・1873年、殖産興業・内政を総括する官庁として
 (● 19 )が新設され、
 大久保利通が初代長官に就任した。
・1875年の大阪会議を受け、
 立法機関の元老院、
 司法機関の( 20 )、
 府知事・県令からなる地方官会議が設置された。
 この3機関のうち(20)は
 1947年まで最高裁判所としての役割を果たした。
 →司法試験受験者にとって、
 (20)の判例も最高裁判例並みに重要です。
・日本の植民地統治機関には、
 1895年設置の(● 21 )、
 1910年設置の(● 22 )などがある。
・1906年設置の関東都督府は、
 1919年の改組により、
 行政担当の関東庁と軍事担当の(▲ 23 )の
 2機関に分離された。
・日中戦争勃発の1937年、
 各省の革新官僚を統合する立案機関として
 内閣直属の(● 24 )が設置された。


245●18.開拓使(カイタクシ)  245●19.内務省
253 20.大審院  268,268下●21.台湾総督府
273●22.朝鮮総督府 319下,322▲23.関東軍
332●24.企画院





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5.現代(昭和戦後以降)


・1947年、片山哲内閣は
 労働政策に関する省庁として( 25 )省を新設した。
 同省は2001年中央省庁再編で厚生労働省に継承された。
・1954年、自衛隊を管理・運営する省庁として
 ( 26 )庁が新設された。
 この同庁は、2007年、(26)省に移行した。
・1971年、公害防止、自然環境の保護をはかる省庁として
 ( 27 )庁が新設された。
 同庁は2001年中央省庁再編で(27)省に移行した。
・古代の蘇我氏が管理した三蔵にもその名があり、
 大宝律令、明治の太政官制下、
 戦後の省庁名として用いられた( 28 )省は、
 2001年中央省庁再編で分割され、
 財務省と金融庁に継承された。


351 25.労働  364 26.防衛
375 27.環境  28.大蔵






(2009/09/23(水))



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 〜日本史受験重要事項〜行政史3〜

 はじめに

 6〜7世紀、
ヨーロッパと東アジアに大帝国を築いた、
古代ローマ(東ローマ)と唐は、
前時代の法をそれぞれローマ法大全、律令にまとめています。
 ローマ法は今のフランスやドイツなどの
法(大陸法)に影響を与え、
唐の律令は朝鮮諸国・日本など
周辺国家に影響を与える事になりました。

 東アジアの場合、
律令を兼ね備えた唐の成立が周辺民族に刺激を与え、
朝鮮3国(新羅、百済、高句麗)が相互に
半島統一をめざすサバイバル戦争を引き起こし、
これに関わった日本は
白村江(ハクソンコウ)の戦い(663年)で痛手を負って
半島への介入にピリオドを打ち、
律令国家形成の道を歩むことになりました。

 律令国家はその名の通り 律令法に基くもので、
こうした「法による支配」は
武家政権(鎌倉、室町、江戸)の時代にも継承されます。
 そして、近代の明治憲法体制下においては、
日本に先がけて憲法を制定したトルコに見られたような
「憲法停止」といった事態がなかった事は
興味深い事です。

以下、「法による支配」の過程を眺めいきます。



1.古代(律令体制の成立)


 7世紀後半〜8世紀初頭に相ついで
令(律令)が制定されたのは、
唐の律令を継承する上で
日本社会の実情にあわせて
法(律令)を変えていったことや、
国家体制や社会そのものを
律令にあわせるための改革を重ねるという、
試行錯誤の積み重ねによるものと考えられます。
・(● 1 ):604年−推古朝が、
            官僚(有力豪族)に支配者としての
            心構えを説いた
・(● 2 ):668年−中大兄皇子(大王天智)の時に制定。
            最初の令とされるが、
            近年はその完成が疑問視されている。
           (教科書類でも重視されなくなっています。)
・(● 3 ):689年施行−天武天皇の時に完成したが、
              施行したのは称制期
             <正式に即位していない天皇の治世期>の
             (● 4 )天皇。
・(● 5 ):701年−(● 6 )天皇の時に完成。
・(● 7 ):718年−(● 8 )らが制定。
             (5)と大きく変わらないとされている。
             施行は(● 9 )年。

※律令とは。
 (▲ 10 )−今の刑法にあたり、刑罰などを定めた。
 (▲ 11 )−行政制度(官庁や官職)や、
        今の民法にあたる法を定めた。


30●1.憲法十七条  33下●2.近江令
34●3.飛鳥浄御原令(アスカキヨミハラリョウ)
34●4.持統  35●5.大宝律令
41●6.文武(モンム)  35下●7.養老律令
35下●8.藤原不比等  35下●9.757(施行したのは不比等の孫・仲麻呂)
35▲10.律  35▲11.令





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2.古代(古代法制の体系化と多様性)


 律令は決して硬直された法律ではなく、
実情に応じて追加・修正する法が出されたり、
法律官僚らにより
条文を実情に応じて解釈することもありました。

・律令の規定を追加・修正する法
 =(● 12 )や
 施行細則を定めた(● 13 )もしばしば出された。
 723年 三世一身の法は「養老7年の(12)」、
 743年 墾田永年私財法は「天平15年の(12)」
 (以上は史料対策でも重要です)

 三代格式−(12)・(13)を
      整理するため編さんされた。
 (● 14 ):9世紀前半−(● 15 )天皇の時。
 (● 16 ):9世紀後半−(● 17 )天皇の時。
 (● 18 ):10世紀前半−(● 19 )天皇の時。

・令の公式解釈書である(● 20 )や、
 法律官僚らの(● 21 )<法的な効力をもたないが、
 後世の法解釈影響を与えた>も 編さんされた。


53●12.格(キャク)  53●13.式
53●14.弘仁(コウニン)格式  53●15.嵯峨
53下●16.貞観(ジョウガン)格式  60●17.清和
53下,61,61下●18.延喜(エンギ)格式  60〜61,61下●19.醍醐
53下●20.令義解(リョウノギゲ) ・・・(解説)清原夏野(キヨハラノ ナツノ)による
53下●21.令集解(リョウノシュウゲ) ・・・(解説)惟宗直本(コレムネノ ナオモト)による


 令義解や令集解については、
字句についての解釈にとどまらず、
現実の社会にあわせて
拡大解釈をとったケースもありました。
律令や公家法は古代のみならず
中世も効力を持ち、
法解釈についても法律官僚
(古代後期以降、一部の公家が家業として
独占・継承するようになりますが)らによって
書物にまとめられています。
 これらの中には、
奈良時代に宅地や田畑を質に入れてはいけない
と定めた法について、
12世紀末に成立した『法曹至要抄(ホッソウシヨウショウ)』では、
この法を否定することなく、
法の制定趣旨を「百姓の生活を保障するため」とみなし、
「その趣旨に反しなければ質に入れてもよい」と
大胆に解釈したものもあります。
 こうした法の運用は、
成文法(憲法、民法、商法、刑法など)を重視しながらも、
判例などで実情に応じた解釈を行い、
時には改廃する現代日本における法の運用
(近年では国籍法の改定など)に
通じるものがあると思われます。



(2009/09/27(日))



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 〜日本史受験重要事項〜行政史4〜

3.鎌倉幕府と武家法(御成敗式目)


 12世紀末に鎌倉幕府が成立し、
1221年承久の乱により
東国政権として出発した幕府の勢力が
西国にも及ぶようになりました。
 鎌倉幕府は、最初は王朝国家
(律令国家を継承した京都政権)から独立した政権としての
独自性を打ち出していましたが、
源(木曽)義仲や平氏を滅ぼしていく過程で、
自ら王朝国家の一端を担う政権としての自覚を抱くようになります。
 そして、幕府の安定期を築いた執権・北条泰時は
体系的な武家法として初の
貞永式目(ジョウエイ シキモク,1232年、御成敗式目)を定めます。


○貞永式目51か条

・成文化の基準
  −(● 1 )以来の判決例と武家社会の慣習
   =「(● 2 )」を成文化した。
・律令や公家法との関連
  −律令や公家法を否定する意図が無い事は、
   執権泰時が弟で六波羅探題の(● 3 )に
   あてた書状が明言している。
・式目制定後の追加法として(● 4 )が
 個別に発布された。


○裁判機関

・1184年、裁判・訴訟を扱う機関として
 (● 5 )が設置された。
 長官には 京の官僚出身の(● 6 )が就任した。
・1225年、重要政務・立法・裁判を
 合議(衆議)するため、
 (▲ 7 )を任命した。
・1249年、裁判の審理を公正・迅速にするため、
 (7)のもとに(● 8 )を任命した。
 → 以後、御家人の所領関係の訴訟は
 (7)・(8)が扱い、
 それ以外の訴訟は
 (5)で取り扱われるようになった。


95●1.源頼朝  95●2.道理
95下●3.北条重時  96下●4.式目追加
90●5.問注所  90下●6.三善康信(ミヨシ ヤスノブ)
95,96▲7.評定衆  96●8.引付衆


(補足)

 90下●6.

   侍所(サムライドコロ)の長官たる 別当(ベットウ)には
  東国御家人の 和田義盛(ワダ ヨシモリ)が任ぜられたが、
   公文所(クモンショ・・・のちの政所(マンドコロ))の長官である、
  別当(ベットウ)に 大江広元(オオエノ ヒロモト)、
   問注所(モンチュウジョ)の長官である、
  執事(シツジ)は 三善康信(ミヨシ ヤスノブ)と、
  後二者は 貴族出身者だった。

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4.室町・戦国時代

 室町幕府も、貞永式目を武家の最高基本法典として継承します。
これは、幕府を開いた足利尊氏自身が
鎌倉幕府の中でも 清和源氏の流れを組む
有力御家人の代表格であると共に
北条泰時の子孫
(足利氏の代々の正室の多くは北条氏出身)であった事の他、
足利尊氏やその周囲の人々が
「鎌倉幕府」に代わる武家政権を
樹立する意識が欠けていた事、などの事情によります。
(彼らにとって、後醍醐政権の維持
 =公家中心の政権か、
  武家政権の復興が基本的な選択肢でした。)


○(● 9 ):1336年

・貞永式目を廃止・改変するために発せられたのではなく、
 当面の政治方針を示したものである。
 →幕府(史料では柳営(リュウエイ))の所在地も
 鎌倉にすべきか他所にすべきかどうか、
 その結論を留保している。
・室町幕府が発した法を「(● 10 )」というのも
 「貞永式目に追加して発せられた建武以後の法」
 という意味による。
・「貞永式目」は
 室町・戦国時代の書き方(手習い書)の
 テキストとしても用いられた。


○室町時代の法世界

・守護大名による領国化や地方武士
 (地頭などが成長した国人や、幕府直属の奉公衆ら)
 の領主化により、
 幕府の全国に対する法支配は
 次第に弱まっていった。
 → 守護大名が領国に発した法
  (戦国家法に継承されるものもある)や、
  近隣の国人同士らが結んだ「(● 11 )契約状」、
  自治村落(惣)の村法である(● 12 )などが見られた。

○分国法(戦国家法)

・戦国大名は、その出自に関係なく、
 領国に対する法(分国法、戦国家法)を
 独自に制定して発布した。
・安芸国の国人領主であった毛利氏は、
 「(11)契約状」を尊重する姿勢を
 領内の国人領主層に示しながら
 支配地を中国全域に及ぼす事に成功した。
・守護大名からそのまま「国主」の地位を保持した
 甲斐{かい}の( 13 )氏や
 駿河{するが}・遠江{とおとうみ}・
 三河{みかわ}3国を領国化した 今川氏は、
 それぞれ、「甲州法度之次第」や
 「(● 14 )」の
 分国法を制定している。
 中には、家臣間の私闘を禁じた( 15 )や、
 無許可の婚姻=私婚を禁じた法も見られた。
・越前朝倉氏は、
 国人などの領主層に各自の居城(城館)から
 城下町の(● 16 )への集住を命じている。
 → 江戸時代初期の一国一城令の先がけを成すものであった。
・東北地方の伊達氏(16世紀、伊達稙宗(タネムネ))が
 制定した分国法の(● 17 )は
 170か条余の条文から成る。

116●9.建武式目  96下●10.建武以来追加
(124)●11.一揆  123●12.惣掟
142 13.武田  143上●14.今川仮名目録
143 15、喧嘩両成敗法  143上●16.一乗谷(イチジョウダニ)
143上●17.塵芥集(ジンカイシュウ)


(補足)

 貞永式目51か条も
建武式目17か条も
乗数はいずれも17の倍数ですが、
これは憲法17条を意識したものとされています。
特に貞永式目は制定過程で統合や圧縮をしていますが
「51」で整える事にこだわっていたと考えられています。
戦国大名朝倉氏の分国法も17か条です。



(2009/09/29(火))



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5.織豊政権(天下政権)の法と秩序

 室町時代は、後期の戦国時代の延長線上に
織田信長・豊臣秀吉が天下統一政権(織豊天下政権)を
樹立した事で事実上消滅します。
 日本法制史の観点でみると、
織田政権も豊臣政権も、
鎌倉幕府の貞永式目(御成敗式目)のような
体系的な法(式目、諸法度)を制定する事はありませんでしたが、
次の江戸幕府は「法による支配」を選びました。

○織田政権−天下統一の途上で横死したため、
     体系的な法の発令はなかった。
○豊臣政権−体系的な法を発令することはなかったが、
     近世社会の基礎となる諸政策を打ち出している。
・1585年:( 1 )に就任した秀吉は、
     同年に九州地方に、
     1587年には関東・東北地方に向けて、
     大名間の合戦(私戦)を禁じる(▲ 2 )を発した。
・1587年:(▲ 3 )−宣教師の国外追放を命じた。
・1588年:( 4 )−農民から武器を没収した。
 これと並行して、村落間の争いなどを禁じた喧嘩口論停止を命じている。
・1588年:(● 5 )−私貿易や倭寇の禁圧を目的とした。
・1591年:(● 6 )−農民・武家奉公人・町人間の身分移動を禁じた。
 → この法令の徹底と朝鮮出兵の人員を確保するため、
  翌1592年に人口調査が行われた (人掃令(ヒトバライレイ))。
・( 7 )検地−荘園を一掃し、近世の石高制の基礎を築いた

152 1.関白  152▲2.惣無事令(ソウブジレイ) 155▲3.バテレン追放令  154 4.刀狩令
155●5.海賊停止(禁止)令  154●6.身分統制令
153 7.太閤





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6.江戸幕府初期の法政策

 徳川家康が「法による支配」を選択し、
その基礎を固めた理由については、
家康自身が東国入り(1590年)してから
東国武士の心をつかむために
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡(アヅマカガミ)』を愛読し、
鎌倉幕府の「法による支配」の影響を
受けたとする説があります。


○徳川の「平和」体制

・1615年:( 8 )
   − 大名の居城を1つにすることを定めた。
    これは国人領主層の現地支配を弱体化させ、
    大名の領内支配を強化させる事にもなった。
・1615年:武家諸法度<当時の元号から(● 9 )令>
   −将軍(● 10 )の名で発令された。
  → のちに、これに違反した安芸の( 11 )
   <豊臣秀吉子飼いの武将として有名>を事実上改易処分とした。
  → 1635年の(● 12 )令で、
   大名の江戸出府=(▲ 13 )を義務づけた。
・1615年:(▲ 14 )
   −天皇や公家を 政治から遠ざける事を目的とした。

160 8.一国一城令  (161),162上●9.元和
161●10.徳川秀忠  161●11.福島正則
162,162上●12.寛永  162▲13.参勤交代
164▲14.禁中並公家諸法度


  (補説)  以下説明は 俗説の類です。
今の日本の「年度」は4月〜翌年3月ですが、
この源流は参勤交代の出府(参府)が
「夏4月中」と定められていた事から、
明治政府が4月を年度始まりにしたとの事。
 参勤交代については、
鎌倉幕府の京都大番役や鎌倉番役、
室町幕府の守護大名在京制などに
由来するという見方もありますが、
大名や将軍との主従関係の確認、
大名間(家臣間)の「横の付き合い」の機会にもなり、
大名の孤立化・独立化(反乱の要因)を防ぐ事にもなりました。



(2009/10/04(日))



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 ↓「版籍奉還で、なぜ 藩主が そのまま
   知藩事に 任命されたのでしょうか?」↓





松井教諭見解:

 版籍奉還(1869年)は、
4藩主(薩長土肥)の上表を受け、
新政府の指導者層が検討した結果によるものです。
 4藩主の上表には次のようにあります。

「大政が新たな時代を向かえ、
その実をあげるため、
私たちは支配する土地や人民を
本来の支配者である天子様(天皇)にお返ししたい。
そして、制度を刷新し、朝廷に権力を一本化し、
<海外各国と並び立つべし>」
 史料を見る限り、
4藩主(やその家臣である明治政府の指導者)の願いが
「万国対峙(バンコク タイジ)」であり、
その前提に中央集権国家の樹立が
急務とされたことが分かります。

 それでも「廃藩置県」へ
という運びにならなかったのは、
「廃藩置県」でさえ 御親兵(ゴシンペイ / 240)を置いて
反乱に備えたほどでしたから、
「版籍奉還」は
保守層の反発をおさえるためだったと思われます。
実際、各藩の代表者らからなる公議所でも
藩制の廃止・変更については 多くが反対でした。

○ 版籍奉還(1869年)
 ・ 徳川将軍にかわり
  天皇から領地支配(領知)を認めてもらう形式をとった。
 ・ 藩主は知藩事に任命された。
  → 天皇に臣従した事は、天皇の命を受ける立場になった。
   二年後の廃藩置県(天皇が知藩事を罷免)を可能にした。


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7.明治期(憲法制定以前)


 大日本帝国憲法制定・
議会開設(1889年・1890年)までの法律は、
名称は「条例」など様々ですが、
その多くは太政官布告(ダジョウカン フコク)や、
詔勅(ショウチョク)として 制定・発布されています。

○1868年:(● 1 )−日本古来の風習である神仏習合を否定した。
○1871年:(● 2 )−貨幣単位を円・銭・厘とした。
○1872年:(● 3 )−アメリカのナショナルバンクを参考に制定した。
○1872年:(● 4 )
   −徴兵制の趣旨を述べた。「血税」の語に民衆が反発。
○1873年:(● 5 )−「国民皆兵」をめざした。
○1873年:(● 6 )−近代租税制度の出発点になった。
○1875年:(● 7 )−明治政府が立憲国家をめざす事を明言した。
○1875年:(● 8 )・(● 9 )
   −政府に対する言論の自由を制限した。
○1876年:(● 10 )−士族から帯刀の特権を奪った。
○1879年:(● 11 )−アメリカの教育制度を模範とした。
○1880年:(● 12 )−民権運動の弾圧を目的とした。
○1881年:(● 13 )−1890年の国会開設などを示した。
○1882年:(● 14 )−軍人に天皇への忠誠などを説いた。
○1882年:(● 15 )設立条例−中央銀行として設立された。
○1884年:(● 16 )−「華族」を増やし、後の貴族院設立に備えた。
○1886年:(● 17 )−帝国大学令・師範学校令・中学校令などの総称。
○1887年:(● 18 )−民権派を東京から退去させた。

日本史2


 ●2471.神仏分離令  245●2.新貨条例
 246●3.国立銀行条例  240●4.徴兵告諭
 240●5.徴兵令  243●6.地租改正条例
 253●7.立憲政体樹立の詔  253●8・9(順不同)−253●新聞紙条例、253●讒謗律
 252●10.廃刀令  288●11.教育令
 254●12.集会条例  255●13.国会開設の勅諭
 267下●14.軍人勅諭  (256)●15.日本銀行
 259●16.華族令  288●17.学校令  258●18.保安条例

日本史2


(補足)

 ●3.国立銀行条例

     渋沢栄一による。246


日本史2


(補足)

 ●7.立憲政体樹立の詔 ●8・9−新聞紙条例、讒謗律

     1875(明治8)年4月、
    漸次立憲政体樹立の詔(ゼンジ リッケン セイタイ ジュリツ ノ ミコトノリ)
    を出すと共に、立法諮問(シモン)機関である元老院(ゲンロウイン)、
    最高裁判所にあたる大審院(ダイシンイン)、
    府知事(フチジ)・県令(ケンレイ)から成る地方官会議(チホウカンカイギ)
    を設置した。
    元老院では 1976(明治9)年から
    憲法草案(ケンポウソウアン)の起草がはじめられた。
    一方、民権運動家達が
    新聞や雑誌で活発に政府を攻撃するのに対し、
    大日本政府は 1875(明治8)年6月、
    讒謗律(ザンボウリツ)・新聞紙条例(シンブンシ ジョウレイ)などを制定して、
    これを厳しく取り締まった。
     1876(明治9)年から 翌1877(明治10)年にかけての
    士族反乱や 農民一揆がおさまると、
    大日本政府は 地方統治制度の整備をはかるため、
    1878(明治11)年に 郡区町村編成法(グンク チョウソン ヘンセイホウ)・
    府県会規則(フケンカイ キソク)・地方税規則(チホウゼイ キソク)の
    いわゆる 三新法(サンシンポウ)を制定した。
    これにより、府会(フカイ)・県会(ケンカイ)を通して
    ある程度の民意を組み入れられる地方制度となった。253


日本史2


(補足)

 ●12.集会条例

     1880(明治13)年3月には 前年末の
    愛国者の第三回大会の呼びかけに基いて、
    国会期成同盟(コッカイ キセイ ドウメイ)が結成され、
    同盟参加の各地の政社(セイシャ)の代表が署名した、
    天皇宛(アテ)の 国会開設請願書を
    太政官や元老院に提出しようとした。
    大日本政府は これを受理せず、
    1880(明治13)年4月に 集会条例(シュウカイ ジョウレイ)を定めて、
    政治の活動を制限した。
    国会期成同盟は 1880(明治13)年11月に
    第二回大会を 今度は 首都東京で開いたが、
    運動方針について意見がまとまらず、
    翌年10月に 各自の憲法草案を携えて
    再会する事だけを決めて 散会した。
    散会した後に、参加者の一部は 別に会合を持ち、
    自由主義政党の結成に進む事を決めた。
    翌1881(明治11)年10月に このグループを中心に、
    板垣退助を総理(党首)とする、
    自由党(ジユウトウ)が結成された。254〜255


日本史2


(補足)

 ●17.学校令

     1886(明治19)年、
    森有礼(モリ アツノリ)文部大臣のもとで制定された。288


日本史2


(補足)

 ●18.保安条例


     1882(明治15)年 集会条例(シュウカイ ジョウレイ)

    → 1882(明治15)年 福島事件
    高田事件・群馬事件・加波山事件(カバサン ジケン)・
    1884(明治17)年 秩父事件・・・秩父で 困民党(コンミントウ) 257

    → 統率に自信を無くし、運転資金も無くした、
    自由党(ジユウトウ)は 加波山事件 後に 解党。
    立憲改新党も 事実上の解党。258

    → 1885(明治18)年 大阪事件(オオサカ ジケン):
    旧自由党左派の大井憲太郎(オオイ ケンタロウ)らが
    朝鮮に渡って その保守的政府を武力で打倒しようと企て、
    その事前に 大阪で検挙された事件。258
    → 自由民権運動は 次第に 衰退していった。258

    → 【しかし】、国会開設の時期が近づくと、
    民権派の間で 運動の再結集が はかられた。
    1887(明治20)年に、板垣退助に代わって同じく高知の
    後藤象二郎(ゴトウ ショウジロウ)が
    大同団結(ダイドウ ダンケツ)を唱え、
    井上馨(イノウエ カオル)外相の条約改正交渉の失敗を機に
    三大事件建白運動(サイダイ ジケン ケンパク ウンドウ)が起こった。
    同年1887(明治20)年末に 大日本政府が
    保安条例(ホアン ジョウレイ)を公布して
    多くの在京(ザイキョウ)の民権派を 東京から追放した後も、
    運動は 東北地方を中心に 継続し、
    1889(明治22)年の 憲法発布によって
    政党再建に向かっていった。258


 → 明治時代

日本史2



8.大日本帝国憲法下の法令


 大日本帝国憲法は、立法について次のように定めています。
 (原文をできる限り平易にしました。)

 第5条−天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う。
 第8条−天皇は公共の安全を保持し、
     又はその災厄を避くるため緊急の必要により
     帝国議会閉会の場合において法律に代るべき勅令を発す。
   2−この勅令は次の会期において帝国議会に提出すべし。
     もし議会において承諾せざるときは
     政府は将来に向けてその効力を失うことを公布すべし。
 第37条−すべて法律は帝国議会の協賛を経るを要す。
 第38条−両議院は政府の提出する法律案を議決し、
     および各々法律案を提出することを得(ウ)。
 第39条−両議院の一において否決したる法律案は
     同会期中において再び提出することを得ず。
 第55条−国務各大臣は天皇を輔弼し、その責に任ず。
   2−すべて法律・勅令その他の他国務に関る詔勅は
     国務大臣の副署を要す。

・法律を制定するためには
 議会での審議・議決を必要としたが、
 総選挙を経た議員らから構成される( 19 )院と、
 非公選の議員からなる( 20 )院は 対等であった。

・第8条の勅令を(▲ 21 )という。
 公布には天皇の諮問機関の(▲ 22 )院での審議を必要とし、
 次の会期の議会での審議・承諾を必要とした。
 → 1928年改定の(● 23 )<死刑を追加>は、
  翌1929年に議会で審議されたが強行採決という手段をとった。
  このとき、無産政党(労農党)の代議士・山本宣治が右翼テロに倒れた。

・第39条は、藩閥内閣などへの民党の抵抗手段になったが、
 政党内閣の時代の 労働組合法の不成立
 <1931年、浜口内閣末期、貴族院で審議未了>などを招いた。


261 19.衆議  261 20.貴族
316▲21.緊急勅令  260▲22.枢密
310●23.治安維持法


 → 明治時代


(2009/10/09(金)・2009/10/10(土))



日本史2



11.戦時下の法令


 十五年戦争期(1931年〜1945年)の日本では、
五・一五事件(1932年)以後は政党内閣が断絶しましたが、
議会は開催され、総選挙も行われ、
予算や重要な法案も議会での審議を経て公布されています。

 こうしたなかで議会政治に危機をもたらしたのが、
1938年成立の国家総動員法です。
その内容は以下の通りです(ひらがな交じりに改変)。

(第1条)本法において国家総動員とは、
    戦時に際し国防目的達成のため、
    国の全力を最も有効に発揮せしむるよう、
    人的および物的資源を統制運用するをいう。
(第4条)政府は、戦時に際し、
    国家総動員上必要ある時は
    勅令の定むる所により帝国臣民を徴用して
    総動員業務に従事せしむることを得る。

 この法の問題点は、
具体的で細かな規定を勅令で定めるとしている点で、
政府が議会を通さずに制定・発令できることは、
議会の権限を軽視または否定するものでした。
実際に多くの勅令が制定・発令されることになりました。

<制定過程>

・1937(昭和12)年7月:(● 1 )事件が勃発。
         →8年以上にわたる( 2 )が始まった。
・1938(昭和13)年4月:第1次(● 3 )内閣、国家総動員法を制定。
 → 議会での審議中、
  説明者の陸軍中佐(佐藤賢了)が
  やじをとばした政友会代議士に「黙れ」と一喝。
  また、与党の立場をとっていた社会大衆党の西尾末広が
  首相を「ヒトラーの如く、ムッソリーニの如く、
  あるいはスターリンの如く大胆に(進むべきである)」と
  「激励」する発言をして議員除名になった。

<国家総動員法による関係勅令>

※ 空欄以外は受験語句として重要ではありません。

○人的資源の統制および利用に関するもの

・(● 4 ):1939(昭和14)年
     −国民を軍需産業に動員することを可能にした。
  ほか、国民職業能力申告令、従業員雇人制限令、工場就業時間制限令など。

○物的資源の統制および利用に関するもの

・(▲ 5 ):1939(昭和14)年
     −公定価格制を導入し、経済統制を強化した。
  ほか、電力調整令、小作料統制令、配電統制令、金属類回収令など。

○資金統制および運用に関するもの
     −会社経理統制令、銀行等資金運用令など。

○事業の統制および運用に関するもの
     −工場事業場管理令、重要産業団体令など。

○文化統制および運用に関するもの
     −新聞紙等掲載制限令、新聞事業令など

330●1.盧溝橋(ロキョウコウ)  330 2.日中戦争
330,331●3.近衛文麿  332●4.国民徴用令(コクミン チョウヨウ レイ)
332▲5.価格等統制令


 → 昭和初期時代



日本史2



12.戦後の法令

 日本国憲法は
国会を「唯一の立法機関」と位置づけています。
以後、法律としての効力をもつ詔勅が
制定・公布される事は無くなりますが、
憲法施行(1947年5月3日)の前日に
最後の勅令として出されたのが、
旧植民地の台湾人や朝鮮人を外国人とする外国人登録令です。
この勅令はサンフランシスコ平和条約の発効発生日である、
1952年4月28日に外国人登録法になります。

 以下、日本史でも重要な戦後(憲法施行後)の法律を列記。

・(▲ 6 ):1950年
    −前年の法隆寺金堂壁画の焼損を機に制定。
・( 7 ):1952年
    −暴力主義的な諸団体の取り締まりをめざして制定。
     → 憲法の定める「結社の自由」等に
     違反するおそれがあるため 適用例は少ない。
     1995(平成7)年地下鉄サリン事件を起こした、
     オウム教団にも適用されなかった。 ・(● 8 ):1967年
    −公害を規制するために制定。
     1993年 環境基本法施行により廃止。
・(▲ 9 ):1986年
    −雇用面での男女間の差別解消をめざした。
・(▲ 10 ):1992年
    −国際平和協力法。自衛隊の海外派遣を可能にした。
・(● 11 ):1999年
    −「日の丸」を国旗、「君が代」を国歌とした。      → 入学式・卒業式における国旗掲揚・国歌斉唱を定着させた。
・(● 12 ):2001年
    −同年アメリカ合衆国で起きた同時多発テロを機に制定。

362▲6.文化財保護法  364 7.破壊活動防止法
375●8.公害対策基本法  -▲9.男女雇用機会均等法
382下▲10.PKO協力法  387●11.国旗・国歌法
-●12.テロ対策特別措置法


 (補足)

  7.破壊活動防止法

    血のメーデー事件 を契機に
   1952(昭和27)年7月、
   暴力主義的破壊活動の規制を目指す、
   破壊活動防止法を成立させ、
   その調査機関として
   公安調査庁(コウアン チョウサ チョウ)を設置した。364


 → 昭和初期時代


(2009/10/12(月))



●●●日本史受験重要人物
日本史2



 〜日本史受験重要人物1〜

1.古代

・6世紀前半、(● 1 )が新羅と結んで
 ヤマト政権に反乱を起こした。
 →反乱年について「527年」とする教科書もありますが、
 『日本書紀』記述の信用性や朝鮮側の史料から
 530年代とする説が有力です。
・6世紀末から7世紀前半、
 蘇我氏の氏上である( 2 )が
 姪の推古天皇のもとで国政を指導した。
・奈良時代初期、
 皇族の( 3 )が実権を握ったが
 藤原氏により自殺に追い込まれた。
 →発掘調査により
 多くの木簡が出土した事でも知られます。
・(▲ 4 )天皇の時、
 蔵人頭・検非違使などの令外官が置かれた。
・11世紀前半、
 清和源氏の(● 5 )が関東で起きた平忠常の乱を鎮圧し、
 源氏の関東進出の地歩を築いた。
 →関東進出は、子・頼義、孫・義家に継承されます。
・後三条天皇のもとで
 学者の(● 6 )が政治に参画した。


28●1.筑紫国造磐井  29 2.蘇我馬子
42 3.長屋王  53▲4.嵯峨  75●5.源頼信
79●6.大江匡房(オオエノ マサフサ) ・・・院政期





日本史2



2.中世

・草創期の鎌倉幕府が設置した侍所の長官に
 (● 7 )が任命された。
・平氏によって焼討ちにあった東大寺や
 大仏を僧(● 8 )が主導して復興した。
・1185年、有力御家人の(● 9 )が
 北条氏嫡流の得宗家の御内人を代表する内管領の
 (● 10 )に滅ぼされた。(霜月騒動)
 →(10)も
 また執権・北条貞時に討たれた。(平禅門の乱)
・足利尊氏の子(● 11 )は
 初代鎌倉公方として関東統治の任にあたった。
 →前段階として、
 (11)の兄義詮(よしあきら、のち2代将軍)が
  父足利尊氏の名代として関東統治の任にあたり、
  叔父直義(タダヨシ)に代わって
  足利義詮が上洛したときに(11)と交代。
・6代将軍足利義教は、
 播磨などの守護(● 12 )に謀殺された。
・(● 13 )は
 地方に連歌を伝え、『犬筑波集』を編んだ。
・1429年、(▲ 14 )が
 三山を統一して琉球王国を築いた。
 →1469年、百姓から王国の重臣となった人物が
  王位(尚円)につき、以後彼の子孫(第二尚氏)が
  代々王を継承し、明治初期の尚泰(ショウタイ)に至ります。
・15世紀中頃、
 アイヌの首長(● 15 )を中心とする大蜂起が起きた。
 →これを鎮圧した武田信広が
  蠣崎氏(のち松前氏)を継ぎます。


93●7.和田義盛  109●8.重源
101●9.安達泰盛  101●10.平頼綱 ・・・北条貞時(ホウジョウ サダトキ)の時代
120●11.足利基氏  121●12.赤松満祐
138●13.山崎宗鑑 ・・・ 宗鑑 138
131▲14.尚巴志
132●15.コシャマイン ・・・1457年





(2009/09/12(土))



日本史2



 〜日本史受験重要人物2〜

3.近世

・ 儒学者藤原惺窩(フジワラ セイカ)は自らは徳川家康に仕えず、
 弟子の(▲ 1 )を徳川家康に推挙した。
 → 孫の信篤が大学頭に登用された。
・ 3代将軍家光の死の直後、
 軍学者( 2 )が反乱を企てが失敗し、自殺した。
・ 1669年、蝦夷地でアイヌの首長(● 3 )が
 反乱を起こしたが鎮圧された。
・ 江戸の豪商(▲ 4 )は
 東北と江戸や大坂を結ぶ東廻り海運・西廻り海運を開いた。
・ 5代将軍綱吉は
 勘定吟味役の(▲ 5 )の貨幣改鋳建言を採用した。
・ 伊勢国松坂出身の(● 6 )は、
 江戸に越後屋呉服店を開業し、
 一族繁栄の基礎を築いた。
・ 田沼意次は、
 『赤蝦夷風説考』の著者(● 7 )の意見を採用して
 蝦夷地の調査を実施した。

・ 1758年の宝暦事件では、
 京都の公家に尊王論を説いた(● 8 )が処罰された。
・ 経世家の(● 9 )は
 『西域物語』『経世秘策』などの著書で富国策を説いた。
・ 三河出身の旅行家(● 10 )は
 蝦夷地なども巡歴し、多くの遊覧記を残した。
・ 越後の豪商(● 11 )は
 江戸の文化人とも交流を持ち、
 67歳の時に 悲願の『北越雪譜』刊行を実現した。
・ 18世紀前半、
 浄瑠璃作家の(● 12 )は
 『仮名手本忠臣蔵』などの作品を残した。


177▲1.林羅山  179 2.由井正雪
177●3.シャクシャイン  188▲4.河村瑞賢
181▲5.荻原重秀  (200)●6.三井高利
203●7.工藤平助  220〜221●8.竹内式部
220●9.本多利明  223下●10.菅江真澄(スガエ マスミ)
-●11.鈴木牧之  216●12.竹田出雲(タケダ イズモ)
日本史2



 (補足)

 ●8

  宝暦事件(ホウレキジケン):18世紀半ば
          竹内式部(タケウチ シキブ)が
          京都で 公家達に尊王論を説いて
          追放刑となった事件。220

  明和事件(メイワジケン):
           山形大弐(ヤマガタ ダイニ)は
          江戸で尊王論を説き
          幕政の腐敗を攻撃したので
          死刑に処せられた事件。221
日本史2

 (補足)

 ●9

     19世紀には、
    都市や農民の実情に触れている人々の中で、
    封建制の維持又は改良を説く、
    現実的な経世思想(ケイセイシソウ)が活発になった。220

  本多利明(ホンダ トシアキ)は、
            西洋諸国との交易による富国策を説き、220
           「西域物語(セイイキモノガタリ)」、
           「経世秘策(ケイセイヒサク)」を著した。221上

  海保青陵(カイボ セイリョウ)は、
            商売をいやしめる武士の偏見を批判して、
           藩財政の再建は 商工業に
           頼らなければならないと言う説を展開し、220
           「稽古談(ケイコダン)」を著した。221上

  佐藤信淵(サトウ ノブヒロ)は、
            産業の国営化と貿易による振興策とを主張し、220
           「経済要録(ケイザイヨウロク)」、
           「農政本論(ノウセイホンロン)」を著した。221上
日本史2

 (補足)

 ●10

   湯治(トウジ)や物見遊山(モノミユサン)など
  庶民の旅も広く行われた。223
   中でも、三河出身の国学者、
  菅江真澄(スガエ マスミ)は、
  40年に渡って 東北地方を旅し、
  その見聞を、
  「菅江真澄遊覧記(スガエマスミ ユウランキ)」
  として残した。223下


日本史2



4.近現代

・ 孝明天皇の妹和宮は、
 将軍(▲ 13 )に嫁いだ。
・ 由利公正らが起草した五箇条の誓文の草案は、
 長州出身の(● 14 )により修正された。
・ アメリカ留学の経験も持つ( 15 )は
 京都に同志社を設立した。
・ 明治前期、( 16 )は『民約訳解』で
 ルソーの社会契約論を紹介した。
・ 1890年、第1議会で首相(● 17 )は
 いわゆる「主権線・利益線」演説を行い、
 軍備拡張予算案を提出した。
・ 民友社を設立した(● 18 )は、
 平民的欧化主義(ヘイミンテキ オウカシュギ)を唱え、
 のちに 国家主義に転じていった。
・ 1912年、(● 19 )らは
 労働組合の育成をめざし、友愛会を結成した。
・ 普通選挙法は、
 (● 20 )を首相とする、
 護憲三派内閣の下で成立した。
・ 第二次世界大戦後、
 アメリカの銀行家(● 21 )が
 日本の経済復興のため来日した。
  ・ (● 22 )は、戦前は新聞記者として、
 戦後は政治家として
 それぞれ活躍し、
 自由民主党の第2代党首(総裁)として首相に就任したが、
 病気のため2ヶ月で退陣した。

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232▲13.徳川家茂  238左,249下●14.木戸孝允
247 15.新島襄  255下 16.中江兆民
240下,259,263,「263下」●17.山県有朋  287●18.徳富蘇峰
307●19.鈴木文治  307,310●20.加藤高明
358●21.ドッジ  365●22.石橋湛山

日本史2



 (補足)


  ●18

     徳富蘇峰(トクトミ ソホウ)は
   平民的欧化主義(ヘイミンテキ オウカシュギ)を唱え、287
   民友社(ミンユウシャ)を作って
   雑誌「国民之友(コクミンノトモ)」を刊行した。287下
     一方、近代的民族主義(キンダイテキ ミンゾクシュギ)を唱えたのは、
    志賀重昴(シガ シゲタカ) の他、287
    三宅雪嶺(ミヤケ セツレイ)は 政教社(セイキョウシャ)を作り、
   雑誌「日本人(ニホンジン)」を、287下
    陸カツ南(クガ カツナン)は、287
   新聞「日本(ニホン)」を刊行し
   前者に対して 思想で対抗した。287下

     しかし、日清戦争の勝利は、
   思想界の動向に決定的な変化を与えた。

    徳富蘇峰(トクトミ ソホウ)は、開戦と同時に
   対外膨張論(タイガイボウチョウロン)に転じ、
    高山樗牛(タカヤマ チョギュウ)は
   雑誌「太陽(タイヨウ)」で、
   日本主義(ニホンシュギ)を唱えて
   日本の大陸進出を肯定した。287
    日本の中国分割への参加を 批判していた、
   陸カツ南(クガ カツナン)も、
   義和団事件(ギワダンジケン)後のロシアの満州占領により、
   対露強硬論(タイロ キョウコウロン)に 転換した。287
     社会主義者と一部のキリスト教徒達は
   これらの思想傾向に反対していたが、
   対外膨張を支持する 国家主義(コッカシュギ)は、
   日露戦争以前に 思想界の主流となっていた。

     しかし、日露戦争での勝利によって
   日本も列強の一員に加わると、
   明治維新以来の国家目標は
   一応 達成されたと言う気持ちが
   国民の間に強まり、
   国家主義(コッカシュギ)に対する疑問が生まれて来た。
   農村においても
   国家や政治から離れて 実利(ジツリ)を求めたり、
   或いは 人生の意義に煩悶(ハンモン)する成年層が現れた。
     このような傾向に対して 日本国政府は、
   1908(明治41)年、勤倹節約(キンケンセツヤク)と
   皇室の尊重を国民に求める、
   戊辰詔書(ボシンショウショ)を発して、
   列強の一員としての日本を支える為の
   国民道徳の強化につとめた。287〜288
日本史2

 (補足)

 ●21  ドッジ=ライン について。

     1948(昭和23)年、GHQ
    (= 連合国軍最高司令官総司令部
    (レンゴウコクグン サイコウシレイカン ソウシレイブ))は、
    第二次吉田茂(ヨシダ シゲル)内閣に対して
    総予算の均衡(キンコウ)、徴税(チョウゼイ)の強化、
    信用拡張の制限、賃金の安定、
    物価の統制などの内容を含む、
    経済安定九原則(ケイザイアンテイキュウゲンソク)
    の実行を、指令した。
     これを実行させる為に、翌年の、
    1949(昭和24)年に 銀行家の ドッジが
    特別公使として派遣され、
    一連の施策を指示した。
    これを ドッジ=ライン と言う。
    第三次吉田茂内閣は このドッジ の要求に従い、
    全く赤字を許さない予算を編成し、
    財政支出を 大幅に削減した。
    次いで、1ドル=360円の
    単一為替レート(タンイツ カワセ レート)を設定して
    日本経済を国際経済に直結させ、
    国際競争の中で 輸出振興を図ろうとした。358


(2009/09/19(土))



●●●天皇
日本史2



 E.江戸時代の朝廷と幕府
   → ●穴埋め問題






A.日本史のなかの天皇

 多くの日本史B教科書記載の天皇家系図は、
いくつかに分けられているもの の、
6世紀の継体天皇から14世紀の南北朝合体までが
1本でつながるように なっています。
それとは対照的に、
南北朝合体(南朝の後亀山、北朝の後小松 の両天皇)以後の
天皇記載が少なくなっています。

○15世紀以後、教科書に記載されている天皇

・後陽成天皇−豊臣秀吉が
      「聚楽第(じゅらくだい、じゅらくのてい)」
      に招いた天皇。
・後水尾天皇−徳川幕府が擁立した天皇。
      幕府に反発し、紫衣事件の最中に譲位。
      修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)の造営など、
      文化人に徹した。
・明正天皇−称徳死後859年ぶりの女帝。江戸時代最初の女帝。
・後桜町天皇−江戸時代2人目の女帝。現在まで「最後の女帝」。
・光格天皇−現在の皇室=閑院宮家系統の祖。

・孝明−明治(睦仁)−大正(嘉仁)−昭和(裕仁)


B.近世初期の天皇

 戦国時代の天皇家は、
1557年に後奈良天皇が死去したとき、
その葬儀や 新天皇(正親町、おおぎまち、1517−93)の即位費用にも
事欠くほどで した。
こうした天皇家の貧困は、
15世紀後半の応仁・文明の乱以後、
室町幕 府や貴族、大寺院・大神社と同様に、
諸国の荘園等(天皇家領)からの収入が 途絶えたことによります。

 しかし、天下統一の過程で織田信長や豊臣秀吉は、
皇居の修理、天皇家領の 保護など、天皇権威の回復につとめています。
 将軍(15代義昭)を追放して室町幕府を滅ぼした信長ですら
天皇の権威を 尊重し、
秀吉にいたっては
正親町の嫡孫の後陽成天皇を
聚楽第(じゅらくのて い)に招き、
諸大名に自らと天皇への忠誠を誓約させています。
 秀吉が九州・関東を平定する際に大義名分とした「惣無事」も、
自らが関白 =天皇の代理人であるという権威にもとづくものでした。

 戦国争乱に終止符を打ち、
天皇の権威を利用することで
新たな秩序を樹立し ようとした信長・秀吉の政策を引き継いだ徳川家康は、
その一方で、天皇のも つ国政や軍事に関与する権限を
制限、奪取することにつとめました。

 それを示したのが、禁中並公家諸法度(1615年)です。


C.禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

 大坂の役直後の1615年(慶長20)年7月、
徳川幕府(2代将軍秀忠 ・大御所家康)は、
後水尾天皇の朝廷に対して、
17か条からなる禁中並公家 諸法度を発します。
起草者は、武家諸法度と同じく、臨済僧の金地院崇伝です。


●禁中並公家諸法度 1615年

一、天子諸芸能の事、第一御学問なり。・・・

一、摂家たりといえども、その器用無きは、
 三公摂関に任ぜらるべからず・・

一、武家の官位は、公家当官の外たるべき事。

一、改元、漢朝の年号の内、
 吉例をもって相定むべし。・・・

一、紫衣の寺は住持職、先規希有の事なり。
 近年みだりに勅許の事、・・はなはだ然るべからず、
 向後においては、その器用を撰び、
 ・・・申し沙汰あるべき事。


 冒頭の「天子諸芸能の事、第一御学問なり」は、
天皇の行動を規制したもの です。
「御学問」には、和歌や有職故実(ゆうそくこじつ)などの
伝統的学問 や教養、儀礼のことです。
「摂家たりといえども・・・」は、
太政大臣・左大臣・右大臣、摂政・関白の 任用に関することです。

「武家の官位は・・・」は、
武家と公家の官位を切り離すことによって
(たと えば2人の左大臣がいても構わないのです)、
朝廷と大名との結びつきを排除 することにねらいがありました。

「紫衣(しえ)の寺は・・・」は、
天皇が高僧に紫衣の着用を許すときは、
前 もって幕府の許可を得ることが義務づけられました。

 幕府は朝廷監視・西国統治の機関として
京都所司代(譜代大名から選任)、
幕府との連絡調整として
武家伝奏(ぶけてんそう、公家から選任)を置きまし た。


D.紫衣事件(しえじけん)

 幕府の権力が高まるなか、
後水尾天皇は幕府による朝廷への干渉に
強い不満 を抱くようになりました。
 こうしたなかでおきたのが、1627年の紫衣事件です。

 幕府は禁中並公家諸法度に違反して行なわれていた
「紫衣勅許」を問題視し、
1615年以降の「紫衣勅許」の取り消しを命じます。
 大徳寺の僧・沢庵(たくあん)は幕府に強く抵抗し、
1629年に出羽に流 罪になりました。
 同年、後水尾天皇は突然退位し、
女御の和子(徳川秀忠の娘)が生んだ
興子 内親王(おきこないしんのう)に譲位しました。
 寝耳に水の幕府はこの突然の事態に驚き、
後水尾の退位撤回につとめたもの の かなわず、
900年ぶりの女帝(明正天皇)の即位になりました。

 しかし、その後の朝廷と幕府との関係は修復され、
後水尾(上皇)はそれから84歳で亡くなるまでの50余年間、
修学院離宮の造営や和歌など宮廷文化を繁栄させ、
きわめて平穏な後半生を過ごしました。


E.江戸時代の朝廷と幕府
  → ●穴埋め問題



(2009/05/07(木))



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(2009/05/07(木))


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