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< 「医療・医学の歴史」「恐慌の時代」 >

1.医療と医学の歴史

○古代

 6世紀 → 朝鮮半島の(● 1 )から
      医・易・暦の博士が来日(来倭)
 8世紀 →(● 2 )天皇の皇后
      =(● 3 )<藤原不比等の娘>が
      医療・貧窮民救済のための
     (● 4 )・施薬院を設立。

○中世

 13世紀 →南都六宗の一つ(● 5 )宗の忍性が
       奈良に(● 6 )を設立し。
       らい病患者の施療・精神の救済を行う。

○近世

 18世紀 →( 7 )の改革<8代将軍吉宗が主導>では、
       目安箱への提言により、
       貧民救済の医院として(● 8 )を設立。
  解剖書−(● 9 )の『蔵志』
      杉田玄白・前野良沢らが『( 10 )』を刊行。
 19世紀 医学を教授した私立学校には、
     シーボルトが長崎に開いた(● 11 )、
     大坂に緒方洪庵が開いた(● 12 )等がある。
 19世紀(幕末期) →民間有志で(● 13 )設立。
      のち、幕府が直営し、医学所となる。


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 24●1.百済  41●2.聖武
 41,49下●3.光明皇后  49下●4.悲田院
 107,107下●5.律  107下●6.北山十八間戸
 197 7.享保  199●8.小石川養生所
 217右●9.山脇東洋  217 10.解体新書
 218●11.鳴滝塾  218●12.適塾  ●13.種痘所

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 松井教諭
 ※ 小石川養生所に似た語句に
  「石川島人足寄場」があります。
  病気のおばあちゃんを見舞いに間違って
  石川島の方に行ってはいけないよ。
 ※ 緒方洪庵の弟子は多彩で、
  福沢諭吉、橋本左内、大村益次郎がいます。



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2.恐慌の時代−1920年代・30年代

○1920年代の恐慌

 A.(● 1 )恐慌−1920年、大戦景気の反動により発生。
    首相:(● 2 )、
    大蔵大臣:高橋是清、
    日銀総裁:井上準之助。  B.(● 3 )恐慌−1923年、関東大震災により発生。
    首相:山本権兵衛、
    大蔵大臣:井上準之助。
    →支払猶予令(モラトリアム)発令。
     政府、決済不能になった手形
     =(● 4 )に対し、
     日銀に特別融資をさせた。

    C.(● 5 )恐慌−1927年、
          (4)の処理をめぐる銀行など金融機関の
           不良経営が明るみに。
          → 預金者の( 6 )騒ぎが発生。
    首相:(● 7 )−与党は(● 8 )
    大蔵大臣:(● 9 )−失言が(6)騒ぎを招いた。
    → 内閣は、総合商社の( 10 )に
     多額の不良債権をもつ( 11 )を
     救済するための(● 12 )案を
     発布しようとしたが、
    (● 13 )で否決され、総辞職した。
    →ついで成立した内閣は、
     支払猶予令(モラトリアム)を発令し、
     恐慌をしずめた。
    首相:(● 14 )−与党は(● 15 )
    大蔵大臣:(● 16 )、
    日銀総裁:市来乙彦(のち井上準之助)

 ※ ここまでの段階では、
  高橋是清と井上準之助は ともに
  日銀総裁・大蔵大臣経験者として
  しばしば 協力し合う仲でした。
  年齢差は 高橋が15歳上でした。
  高橋は 維新の変転期に
  苦学・苦労を重ねて日銀総裁となり、
  井上は東大出身で日銀出身初の総裁です。
  のちの金融恐慌の要因となる「震災手形」発行も
  井上大蔵大臣によるものです。


○1930年代(井上財政と高橋財政)

 D.井上財政−1930年、
      (● 17 )を断行。<金本位制に復帰>
   首相:(● 18 )−与党は(● 19 )
   大蔵大臣:井上準之助
   → 旧平価での(17)断行
      = 円の切(● 20 )げ、
       緊縮財政、産業合理化。
   → 前年に アメリカで 発生した、
   (● 21 )の余波を受け、
   (● 22 )恐慌を招いた。
   →次の(● 23 )内閣でも井上は大蔵大臣をつとめた。

 E.高橋財政−1931年末、
      (● 24 )を断行。 <金本位制を離脱>
   首相:(● 25 )−与党は(● 26 )
   大蔵大臣:高橋是清
   → 円相場の下落:円高状態から円安状態へ。
   → 財政膨張政策(積極財政):赤字国債発行による。
   → 挙国一致の(● 27 )・(● 28 )両内閣でも
    高橋は 大蔵大臣をつとめた。
   → 他の先進国に先がけて世界恐慌から脱出した。

 ※ 金解禁以降、井上・高橋は
  対照的な財政施策をとりました。
  政治家としても、井上は民政党、高橋は政友会と、
  相対立する政党にそれぞれの身をおきます。
  しかし、2人ともテロに倒れるという、
  財政家としては共にまれな最期を迎えました。

  井上準之助−1932年、
      (● 29 )の一員により射殺。63歳。
  高橋是清 −1936年、
      (▲ 30 )事件で射殺。82歳。


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 316●1.戦後  301●2.原敬
 316●4.震災手形  316●5.金融  316 6.取付け
 310,311,316●7.若槻礼次郎  (316,)裏●8.憲政会
 316●9.片岡直温  316,316下 10.鈴木商店
 316,316下 11.台湾銀行  316●12.緊急勅令
 316●13.枢密院
 310,316●14.田中義一  316●15.立憲政友会
 301,324,327●16.高橋是清  319,320●17.金輸出解禁
 319,321●18.浜口雄幸  319●19.立憲民政党
 320下●20.上  320●21.世界恐慌
 320●22.昭和  310,311,316,322●23.第2次若槻礼次郎
 324●24.金輸出再禁止  323,324●25.犬養毅
 324●26.立憲政友会
 323,326●27.斎藤実  326,327●28.岡田啓介
 323●29.血盟団  327▲30.二・二六





(2010/01/10(日))



●●●日本史受験重要事項人物編
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 〜日本史受験重要事項〜人物編1〜

 取り上げる人物としては、
6世紀〜江戸時代は1世紀に1人あるいは1組とし、
近代以降は数名ほどです。

 6世紀−大王継体と磐井
 7世紀−持統天皇(アジアと女性の王)
 8世紀−藤原仲麻呂(錯綜の人生と奈良朝)
 9世紀−菅原道真
 10世紀−源信、11世紀−源頼義
 12世紀−後白河法皇
 13世紀−北条時頼
 14世紀−足利尊氏・直義(頼朝・泰時の後継者)
 15世紀−山名宗全
 16世紀−織田信長
 17世紀−徳川光圀
 18世紀−田沼意次
 19世紀−島津斉彬・久光






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●●●日本史受験重要事項人物編1

 ●↓穴埋め問題↓●

<5〜7世紀初頭>

○5世紀

・ 4世紀末から朝鮮半島に侵入した倭を、
 5世紀初頭に高句麗の(▲ 1 )が撃退した。

・「(● 2 )」とよばれた、
 倭(ヤマト政権)の首長5人が
 相ついで中国の南朝に使者を派遣した。
  最後の「武」は
 奈良時代に「(● 3 )天皇」と名づけられる大王として、
 上表文などで有名。
 → 彼の名ワカタケルの名を刻んだ金石文として
  埼玉県(● 4 )古墳出土の鉄剣、
  熊本県(● 5 )古墳出土の鉄刀が有名。
 → この事から、
  関東地方から九州北中部に
  ヤマト政権の勢力が及んでいたと 考えられている。

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22,23上▲1.好太王  23,27●2.倭の五王
23下,27●3.雄略  27●4.稲荷山  27●5.江田船山
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  ↓穴埋め問題 続き↓

○6世紀

・ 6世紀初頭、越前・近江などを基盤とする、
 「(● 6 )天皇」が即位した。
・ 6世紀前半、九州で(▲ 7 )が
 新羅と結んで反乱を起こした。
・ 仏教公伝−百済の(● 8 )から倭の「(● 9 )天皇」へ。
 公伝年−『日本書紀』は(● 10 )年、
 『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』などは(● 11 )年としている。
・ 562年:加羅(伽耶(カヤ))が百済・新羅の勢力下に入る。
・ 587年:蘇我馬子が( 12 )と戦って滅ぼした。
・ 592年:馬子が「(● 13 )天皇」を殺害した。
・ 593年:馬子の姪で「敏達天皇」の妃だった、
 「(● 14 )天皇」が 即位した。
 →(14)は 628年 死去まで、35年の長きにわたり倭国を統治した。

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●6.継体  28▲7.筑紫国造磐井
24下●8.聖明王  24下●9.欽明
24下●10.552  24下●11.538
30 12.物部守屋  30●13.崇峻  30●14.推古
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 → 古代 中世 奈良時代
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  [以上の 解説 松井教諭]

日本史受験重要事項人物編1

●人物編1「大王継体と磐井」〜6世紀の争乱〜

1.大王家(皇室)の始祖

 〜 現在の皇室の始祖は誰か?

 こうした質問を受けたとしたら、
松井教諭は「100%とはいえないかもしれないけど、
6世紀初頭に登場した大王(オオキミ)の継体(ケイタイ)かな」
と答えることでしょう。
有名な人物との比較でいえば、
厩戸王(聖徳太子)の曾祖父にあたる人物です。

『日本書紀』(以下『紀』)によれば、
6世紀初頭、「倭の五王」の同族・子孫と思われる、
大王武烈(ブレツ)が死去します。
『紀』は 武烈を
中国の殷(イン)の紂王(チュウオウ)にも似た残虐非道、
酒池肉林の人物として描いています。
 こうした記述については、
『紀』を編さんした7〜8世紀の日本の支配者が、
旧王朝を悪く書く中国史書の編さん方針を
まねたとする説が有力です。
『紀』は続けて、
武烈の死後、大伴金村(オオトモノ カナムラ)、物部麁鹿火(モノノベノ アカヒラ)ら
ヤマト政権の有力者が、
大王応神(オウジン)の5世の孫(曾孫の孫)で、
近江から越前、尾張・美濃などとも関係をもつ男大迹(オオド)を
次期大王に迎えるという行動をとります。
この男 大迹 こそ 継体天皇です。

『紀』とほぼ同時期に編さんされた大宝令は
皇親(皇族)を4世孫(4世王)以内としています。
(706年の格(キャク)で5世孫までを皇親としました)
 これらのことから、
大王武烈が旧王朝に属し、
大王継体が旧王朝とは関係が薄い人物であるという認識が
200年後の『紀』編さん者にあったことが推測できます。

 いずれにせよ、
現在の皇室が6世紀の大王継体の子孫であることは、
この事だけでも世界史上では比類の無い事ではあります。



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 〜継体の即位事情とその後〜

 継体は、6世紀初頭に
58歳で河内国の樟葉宮(クスバノミヤ)で即位し、
大王武烈のきょうだい手白香(タシラカ)を妃にします。
しかし その後も 大和には入れず、
ようやく大和に入ったのは
約20年後(西暦526年とされます)の事でした。
継体の死はそれから5年後のことでした。
 継体の死後、いずれも継体の子である、
安閑(アンカン)・宣化(センカ)の両大王と
欽明大王のそれぞれの政権が対立したとする説が有力ですが、
やがて権力は 欽明側に 一本化されます。
 以後の大王(天皇)は全て継体・欽明の子孫です。
(「 )は子孫なく断絶。

 継体−欽明(母は手白香)−敏達・用明・崇峻・推古(敏達の妃)
 →用明−厩戸王(聖徳太子)−山背大兄王」
 →敏達−○−舒明(妃は皇極・斉明)−天智・天武
  →天智(母は皇極・斉明)−持統(天武の妃)・志貴皇子
   →志貴皇子−光仁−桓武→今の皇室へ
  →天武(母は皇極・斉明)−草壁(母は持統)−文武−聖武−孝謙(称徳)」。



 → 古代 中世 奈良時代


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2.磐井の反乱

 『紀』は、大王継体の時代の出来事として、
九州に覇をとなえる筑紫国造磐井(ツクシノクニノ ミヤツコ イワイ)の
反乱記事をのせています。
 現在も、この反乱発生年を527年と記す教科書がありますが、
仏教公伝年について『紀』記載記事(552年)を疑問視しているのに、
それよりも前の磐井の乱の発生年を
特定する事は不自然です。(530年代説もあります)

 磐井は、新羅と結んで
近江毛野(オウミノケノ)が率いる朝鮮半島への出兵軍の行動を妨害し、
その後約1年半もの間、筑紫(今の福岡県。のちに筑前・筑後)、
火の国(今の佐賀・長崎・熊本県。のちに肥前・肥後)、
豊の国(今の福岡・大分県。のちに豊前・豊後)を支配下におき、
高句麗・百済・新羅・加羅諸国とも独自に外交を行なうなど、
独立国家を築きます。

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 大王継体は、
「筑紫の磐井、そむきおそいて、西の戎(ヒナ)の地(クニ)を有(モ)つ」
と述べて、事態を深刻にとらえます。
(磐井の乱が527年であれば
この時の大王は継体ですが、
530年代ならば継体で無い可能性があります。)

 やがて物部麁鹿火の攻撃を受けて磐井は敗死します。
磐井の子が献上した九州各地の領地に屯倉(ミヤケ)が設置されます。
物部・大伴など中央豪族は磐井の私有民を奪い、
みずからの部曲(カキベ)にしています。

 磐井を葬った古墳が
石人・石馬で有名な岩戸山古墳(福岡県八女市)で、
被葬者(葬られた豪族)の名と古墳、時代が判別出来る、
数少ない古墳の1つです。
 九州が再び独立王国をめざして中央政府に抵抗したのは、
磐井の乱を『紀』の527年と仮定して
1350年後の1877年、西郷隆盛による西南戦争でした。
 磐井も西郷も
中央政府に出仕した経験をもつ点や、
その死後 中央政府による集権化が進んだ点で似ています。

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 〜同じ釜の飯〜

 若き日を共に過ごした事を
「同じ釜の飯を食べた」などといいますが、
これに似た言葉が、
反乱を起こした磐井が
ヤマト政権軍を率いてきた近江毛野に述べた言葉の中にあります。
「今為使者。昔為吾伴。摩肩触肘、共器同食。
安得率爾為使、俾余自伏爾前」
(今、お前はヤマト政権の使者になっているが、
昔は仲間として肩や肘をすりあわせ、
同じ食器で食事を一緒にした仲ではないか。
使者になったからといって、
お前に俺を従わせることなどできないぞ。)

 食べ盛りの若い磐井や毛野が煮えたぎる米や汁を
すすっている姿が想像されます。
彼らが共に寝起きした場所は、
やはりヤマト政権の周辺だったと考えられます。
近江毛野は その氏の名から
畿内に近い近江(今の滋賀県)を基盤とする、
「臣(オミ)」姓をもつ豪族であったと思われます。
(死後近江に葬られています。)

 九州に基盤をもつ磐井は、
ヤマト政権に服属する地方豪族の子弟として
大王のもとに送られて青年期を過ごし、
父が死んだために その地位を継承するために 九州に戻り、
近畿地方の混乱(大王継体の即位など)や
半島の情勢を目の当たりにして、
しだいに新羅などと結び、
独自の野望を強めていったと思われます。

 磐井が 毛野に投げかけた言葉は、
磐井らが青春期を過ごしたヤマト政権を旧王朝、
反乱時のヤマト政権が継体に始まる新王朝と認識していたことや、
地方豪族が独自の権限で
地方支配や外国との外交を行っていたと仮定すれば
容易に理解出来ます。
「おれもお前も前王朝に仕えた身ではないか。
九州にいるオレにとって、
成立事情が不透明な新王朝に仕えることは出来無い。
何よりもまず、オレたち豪族が地方を支配し、
外国と独自に交渉する事は、固有の権限ではないのか」−と。




 → 古代 中世 奈良時代
(2009/10/14(水))





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 〜日本史受験重要事項〜人物編2〜

7世紀の流れ

○7世紀初頭−推古天皇・蘇我馬子・厩戸王らが
中央集権づくりを試みた。

・603年:(● 1 )−豪族クラスの個々の序列化をはかった。
・604年:(● 2 )−豪族に官僚としての民衆支配の心構えを示した。
・607年:遣隋使を派遣。
     使者( 3 )が隋皇帝(▲ 4 )と面会した。


○舒明(ジョメイ)天皇
   −推古の死後、非蘇我系で大王敏達(ビダツ)の孫が即位した。

・630年:初の遣唐使を派遣した。使者は( 5 )。
・639年:九重の塔をもつ壮大な百済大寺(クダラ ダイジ)を建立した。
 → 大規模な土木工事を伴う寺や都づくりは、
  その後の舒明王家の課題になった。
 → 舒明の死後、妃が即位した(皇極)。
・643年:皇極・蘇我氏が
     有力な王位継承者の(▲ 6 )を滅ぼした。


   ↓ 問題 下にも つづく ↓

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30●1.冠位十二階  30 ●2.憲法十七条
30 3.小野妹子  30 4.煬帝(ヨウダイ)
30 5.犬上御田鍬(イヌガミノ ミタスキ)
32 ▲6.山背大兄王(ヤマシロノ オオエノオウ)

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  ↓ つづき ↓

○7世紀後半(舒明系王家の興亡)

・645年:( 7 )の変
   −蘇我氏が滅び、大王孝徳(皇極の弟)が即位した。
 → 孝徳の死後、皇極が再度即位した(斉明)。
  夫(舒明)の意思を受け継いで壮大な都づくり(飛鳥岡本宮)めざしたが、
  豪族・民衆の反発を招いた。

・660年:(● 8 )滅亡
 → その復興支援のため
  首都機能を九州(筑紫(ツクシ)の朝倉宮)へうつしたが、
  直後の661年に斉明が死去した。

・663年:( 9 )
   −敗北した倭は、古代における朝鮮出兵を終了させた。
 → 数年の大王空位(661年〜668年)を経て、
  中大兄が近江大津宮で即位した(天智(テンチ・テンジ))。

・668年:近江令−発布については疑問視もされている。
・670年:初の戸籍(▲ 10 )が造籍された。
・671年:天智死去 → 子の近江政権が(● 11 )を継承した。
・672年:(● 12 )
   −大海人(天智の同母弟)が甥の(11)を滅ぼした。
・673年:大海人が飛鳥の(● 13 )で即位した(天武天皇)。
・684年:(● 14 )を定めた。−豪族の序列を再編した。
 → 天武の死後、妃が即位した(持統天皇)。
・689年:(▲ 15 )が施行された。
・690年:6年ごとに作成する初の戸籍(● 16 )が造籍された。
・694年:飛鳥に中国式の宮都(● 17 )が完成した。
 ※天武・持統の両天皇の時代に遣唐使は派遣されていない。
 (17)づくりに参考にされたのは、唐の都長安(チョウアン)ではなく、
  中国古典の『周礼(シュライ)』などであった。
・701年:(● 18 )天皇・持統太上天皇のもとで大宝律令が完成した。
・702年:持統死去。

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32 7.乙巳(イッシ)
22,29,33●8.百済  33 9.白村江(ハクソンコウ)の戦い
33▲10.庚午年籍(コウゴ ネンジャク)  33●11.大友皇子
33●12.壬申の乱  33●13.浄御原宮(キヨミハラノミヤ)
33●14.八色(ハッシキ・ヤクサ)の姓(カバネ・セイ)
34▲15.飛鳥浄御原令  34●16.庚寅年籍(コウイン ネンジャク)
34●17.藤原京  41●18.文武(モンム)

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  [以上の 解説 松井教諭]

〜 持統天皇 〜 7世紀アジアと女性の王〜

1.持統天皇と志斐嫗

『万葉集』(巻3)には、次の2つの歌がおさめられています。
「いなといへど強(シ)うる志斐(シイ)のが強語(シイガタリ)、
 この頃聞かずて、朕{われ}恋いにけり」(天皇)

「いなといへど、語れ語れと詔(ノ)らせこそ志斐いは奏(ソウ)せ、
 強語(シイガタリ)とのる(志斐嫗(シイノオウナ))

 天皇は持統天皇(異説もあります)、
志斐嫗はその側近たちの中の一人と考えられます。

「私がいやだと言っているのに
 無理に自分から語ってくる志斐嫗なのに、
 最近は こうした強語(シイガタリ)を聞かないので、
 私は寂しい思いでいます^^」
「私がいやだと言っているのに
 天皇様が語れ語れと仰せられたから
 私は語ったのですよ。
 それを強語(シイガタリ)だなんて、私は非情に不愉快です^^」

 持統天皇が位にあったのは40代半ばから50代前半のこと。
嫗(オウナ)は ふつうは「老女」を意味する語句ですが、
宮中でキャリアを積んだ女官、あるいは
「神語(カンガタリ)=神話の伝承を務めた女官とも考えられます。
 いつの時代や場所にも、
 周囲にからかわれたり周囲をなごませる人物がいます。
 この嫗もそうした一人だったのでしょう。

2.持統天皇57年の生涯(645年〜702年)

 持統天皇は、
中大兄皇子(大王天智)と蘇我氏の傍流、蘇我倉山田石川麻呂
(馬子の孫、蝦夷の甥、入鹿とは従兄弟)の娘との間に、
乙巳(イッシ)の変と同じ 645年に生まれています。
649年、右大臣の祖父・石川麻呂が反逆の疑いで自殺、
持統の母もその直後に病死したとされています。
 石川麻呂の反逆については、
大王孝徳あるいは中大兄皇子の陰謀説もありますが
真相は不明です。
 讚良(サララ)とよばれた持統は、
657年に叔父にあたる大海人皇子(オオアマノ オウジ)の妻となり、
5年後に草壁(クサカベ)皇子を生みます。
 前後して、歴史は孝徳から斉明へ
(持統の祖母。皇極大王が再度即位)と移り、
百済滅亡(660年)、斉明死去、
白村江の戦い(663年)と展開します。

 持統にとって人生の第1の山場は、
父・天智の死後、夫とともに移住先の吉野で挙兵して
大友皇子(持統の異母弟)を滅ぼして勝利をおさめたときです
(672年、壬申の乱)。
 大海人は673年に飛鳥(浄御原宮)で即位して
天武天皇(天皇号は彼に始まるとする説が現在有力)となり、
持統は皇后になります。

 第2の山場は、686年に夫・天武が死去した直後。
実子・草壁への皇位継承を実現するために
大津皇子(父は天武、母は持統の同母姉)を反逆の疑いで処刑。
にもかかわらず、3年後に草壁が死去してしまいます。
 こうして持統は、
孫(草壁の子、のち文武(モンム)天皇)に譲位するまでの
10数年間位につきます。
689年に飛鳥浄御原令を施行し、
690年に庚寅年籍(コウイン ネンジャク)を造らせ、
694年に飛鳥の地に藤原京を完成させます。
 大宝律令(701年)も文武天皇の時に完成しますが、
その編さん事業を主導したのが
持統太上天皇(ダイジョウ テンノウ)でした。
完成の翌702年に57歳で死去、
遺体は天皇では初の火葬で、夫の墳墓に葬られました
(天武・持統合葬陵(ガッソウリョウ))。


3.アジア女王・女帝の7世紀

 7世紀の中国・朝鮮・日本(倭)は、
女王・女帝が他の時代と比べて 多く出現した時期です。
(新羅では善徳女王、真徳女王
唐では中国史上ただ一人の女帝・則天武后(ソクテン ブコウ)がそれぞれ登場)。
 日本では、推古、皇極(斉明)、持統の3人4代で、
合計の在位期間は7世紀100年のうち半分をこえます。
 なかでも、隋から唐、朝鮮3国から統一新羅というアジア激動の中で
律令国家建設を主導した持統天皇は、
古代国家の生みの親だといえます。

 大宝律令の制定と同時期に唐へ派遣された使者は、
国名を「日本」と名のっています。
「日本」の国号選定も持統が大きく関わったとされています。
「日本」の由来は不明ですが、
持統にとっては玄祖父(祖父の祖父)にあたる蘇我馬子の時に
派遣された遣隋使(小野妹子)の国書
「日出づるところの天子」にみられるように、
対外的に「日の昇る国」とする意識が
あったのではないかと思います。
 持統が壬申の乱後に没落の危機にあった藤原不比等
(近江政権の功臣・藤原鎌足の子)を登用したことは、
その後の藤原氏発展の基礎になります。
 元号も「大宝」から連続して使用されていることから、
こうした国のかたちづくりを考える上で
持統は非常に重要な人物です。


日本史2



★持統の母(蘇我氏)の系統でみた相承

 蘇我馬子−○−石川麻呂−○−持統−草壁−文武・元正−聖武−孝謙(称徳)


★持統の父(大王天智)の系統でみた相承

 継体−欽明−敏達−○−舒明・皇極(斉明)−天智−持統
   −草壁−文武・元正−聖武−孝謙(称徳)。

松井教諭。



 → 古代 中世 奈良時代

  
(2009/10/16(金))



日本史2



〜人物編10 <15世紀> 「山名宗全」〜


<15世紀の流れ>

・1408年:室町3代将軍・太政大臣を歴任し、
 「日本国王」として明との国交樹立・貿易を
 実現した( 1 )が49歳で死去した。
 →4代将軍は子( 2 )が継承した。
  父が始めた明との( 3 )貿易を中断させた。
 (朝貢形式や「日本国王」を名のることへの反発が原因とされる)
・1417年:関東管領も歴任した( 4 )が反乱を起こした。
・1419年:朝鮮国が対馬等を倭寇の拠点とみなして攻撃した。=( 5 )
・1422年:4代将軍(2)が子の義量{よしかず}に将軍職を譲った。
・1425年:5代将軍義量が17歳で死去(原因は酒の飲み過ぎ)。
 →(2)が将軍職に再就任した。
・1428年:(2)が死去した。
 後継将軍を幕政担当の有力守護らに委ねた。
 →候補者名を記した紙を
  石清水八幡宮から1つ持ち帰る「くじ引き」で選定。
 →(1)の子で天台座主{てんだいざす}が
  6代将軍( 6 )に就任した。
・1428年:わが国で初の「土民蜂起」の( 7 )が起きた。
・1433年:6代将軍(6)が(3)貿易を再開させた。
・1438〜39年:( 8 )
 −鎌倉公方の( 9 )が討滅された。
・1440年:(9)の遺児を擁立した( 10 )が関東で起きた。
・1441年:( 11 )−6代将軍(6)が
  有力守護( 12 )により 殺害された。
  「将軍此{かく}のごとき犬死{いぬじに}、
  古来その例を聞かざる事なり。(看聞御記)」
 →7代将軍は子の義勝(43年病死)、
  8代将軍はその同母弟( 13 )が 継承した。
 →幕府が(12)の討滅に専念したたため
  生じた政治的な空白期に大規模な一揆=(● 14 )が起き、
  京都が彼ら一揆勢に制圧された。
 →幕府は初めて(● 15 )を発した。
・1467−77年:応仁・文明の乱
・1485年:(▲ 16 )−南山城から畠山氏が追放された。
・1488年:(● 17 )−加賀守護(● 18 )を自害させた。
・1493年:(● 19 )−10代将軍が廃位された。
 →同年の戦国大名(● 20 )による伊豆侵攻とともに、
 戦国時代の幕開けを象徴する出来事でもあった。

118,119,121 1.足利義満  120●2.足利義持
130 3.勘合  120下●4.上杉禅秀{ぜんしゅう}
131▲5.応永の外寇{おうえいのがいこう}  120 6.足利義教
124▲7.正長{しょうちょう}の徳政一揆=土一揆{つちいっき}
120●8.永享の乱  120下,141●9.足利持氏
120下●10.結城合戦  121●11.嘉吉{かきつ}の変
121●12.赤松満祐{あかまつみつすけ}  133,136 13.足利義政
121,125●14.嘉吉の徳政一揆  124,125●15.徳政令
122▲16.山城の国一揆  122●17.加賀の一向一揆
122●18.富樫政親{とがしまさちか}
●19.明応の政変{めいおうのせいへん}
141●20.北条早雲(伊勢宗瑞)


日本史2



0.「例」と「時」

 戦国時代の末期に成立したとされる説話集
『塵塚{ちりづか}物語』には、
次のようなエピソードがあります。
口語訳は松井教諭によるものです。

 その内容は、室町幕府の中央政界でも
重要な役職を歴任した武将である山名宗全{やまなそうぜん}と、
貴族階級に属するある大臣との問答という形式をとっています。

 山名宗全が、応仁・文明の乱のころ、
ある貴族(大臣)の邸{やしき}で、
乱世に突入した当時のことについて、
多くの人々が苦しい思いをしている様子などを語り合いました。

 この邸の大臣は何かにつけて今目の前で起きていることと
過去の例(先例)とを比較してあれこれと話します。
しかし、宗全はきっぱりと次のように述べました。

「貴方様(君)の仰せになることは一応ごもっともな事です。
しかし、今起きている事を過去の例と比較して述べるのは、
良い事ではありません。
今後は「例(先例)」を「時(時勢)」という語に
置きかえてお考えください。
(向後は時といふ文字にかへて御心えあるべし。)」

 過去の規範に縛られて
私たちが受動的に行動する「例(先例)」が
通用する世は終わったのですから、
今後は過去の規範にとらわれず、
自分自身が「時勢」の中で
主体的に未来を切り拓かなければいけない時代なのです。
 本当にこうした会話がなされたとは思われませんが、
戦国末において、宗全が新しい時代(下剋上の時代)の到来を
認識していた人物とみなされていた事が分かります。

日本史2



1.山名宗全の前半生

 今回、15世紀を代表する人物に山名宗全
{やまなそうぜん、1404−1473}を選んだ理由は、
日本史教科書に登場する人物の中で、
比較的長く室町幕 政に関わった人物であることや、
応仁・文明の乱など
多くの有名な事件に関わった武将であること、などによります。
 新刊の吉川弘文館の人物叢書シリーズ(未読)で宗全は、
領国経営に優れた手腕を発揮した
「剛毅」な武将として分析されています。

○山名氏

 山名氏は清和源氏の流れで、
室町幕府の初代将軍・足利尊氏のライバルでもあった新田義貞を
出した新田氏の一門に属し、
上野国の山名郷(今の群馬県高崎市)を本拠する
鎌倉幕府の御家人の一族でした。
しかし山名氏は、鎌倉時代の末期や南北朝期は
足利氏と行動を共にして活躍し、
14世紀末には一族で
11か国(全国66か国の6分の1)の守護職をもつ
大勢力(「六分の一衆」)になっています。
 山名氏清が1391年の明徳の乱で滅ぼされた後、
山名一族は但馬{たじま}・伯耆{ほうき}2か国の
守護職だけを保つ地位に転落しました。
 このうちの但馬守護の家に生まれたのが
山名持豊{もちとよ}、すなわち宗全(ソウゼン)です。
 宗全は28歳で家督{かとく}を相続したとき、
これに不満を抱く兄と戦う事も経験しています。

 1440年、幕府に真面目に仕えた宗全は
侍所の長官(所司)になりますが、
その翌年に嘉吉の変{かきつのへん}に遭遇します。
6代将軍・足利義教が殺害されたという事件です。
この時、宗全は将軍殺害の場に、
将軍に従う有力武将として居合わせていましたが、
宗全はあえて赤松側に抵抗せず赤松邸を脱出しています。
 その後、宗全が播磨に向かった赤松勢を追って
討滅に功績をおさめたため、
山名一族は、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨の守護職を与えられ、
かつての勢力を取り戻しています。
 こうして幕府での地位を確保した宗全は、
婚姻政策によって細川・大内・斯波・六角氏などと
結びつきを深めて権勢を誇った末、
1450年に家督を子に譲って出家します。
年齢では40代半ば、
もう自分自身のなすべき役目を果たしたから
静かに隠居生活に入ろう、そう思ったのではないでしょうか。
(その後、将軍義政と対立して4年間を領国の但馬で過ごし、
許されて京に戻ります。)

 そして、歴史の流れは
宗全をその表舞台に引き出す事になります。

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2.有力守護大名家の家督争いと応仁・文明の乱

 当時の武家社会では、
鎌倉時代に見られた分割相続から、
南北朝時代の頃から
嫡子の単独相続へと移り変わっていました。
 将軍(室町殿)の家来の中でも有力な武将は
守護に任命されましたが、
それは鎌倉時代の守護とは異なり、
土地・武士に対する権益や権限を
強く領国に及ぼすようになっていました。
これを守護領国制といいます。

 このため、それぞれの守護大名家では
家督相続をめぐる争いが激化します。
家督を相続できるものは全ての権限・利益(権益)を入手できます。
しかし、そうでないものは 全ての権益を失うことになるからです。
 特に幕政を主導する地位の管領家(細川、斯波{しば}、畠山)のうち
斯波・畠山両氏における家督相続争いは
熾烈{しれつ}をきわめ、
応仁・文明の乱(1467−77年)を引き起こす原因になりました。
畠山氏の争いは乱後8年も続き、
山城の国一揆(1485年)を招く事になりました。

 斯波氏の場合、
それを補佐する守護代の織田家の家督相続の争いにも
幕府が介入するという事態を招いています。

 こうした守護大名家や守護代家の争いは、
その裁定をめぐり、
もともと舅・婿の関係にあった幕政指導者の山名宗全と
管領{かんれい}細川勝元(宗全の養女が勝元の妻)との争いを
引き起こすことになりました。
日本史2



○応仁・文明の乱

(東軍)−足利義視{あしかがよしみ}、細川勝元、
     畠山政長、斯波義敏{よしとし}、
     富樫政親{とがしまさちか}ら。
(西軍)−日野富子・足利義尚{よしひさ}、
     山名宗全、畠山義就{よしひろ}、
     斯波義廉{よしかど}、大内政弘ら。

 →乱後、日野富子と義視との対立は一時解消し、
 9代将軍義尚が1489年に26歳で死去すると、
 富子は義視の子(義材{よしき}=義稙{よしたね}を
 10代将軍に就任させています。
 (しかし富子は3年後に義材を廃し、
 義政の甥・義澄{よしずみ}を11代将軍に就けています。
 明応の政変です。)

 宗全・細川勝元は
応仁・文明の乱の最中にともに病気で死去し、
1477年にそれぞれの後継者である
山名政豊{まさとよ}と細川政元{まさもと}との間で和議が成立し、
乱は終わります。
政元は、後に空を飛ぶことばかりに専念して幕政を顧みなくなり、
家臣に殺された人物です。

 ※ 余談ですが、山名氏は江戸時代は
  但馬に6千700石の所領をもつ旗本となり、
  1869年(明治2)の石直{こくなお}しで
  1万石余の村岡藩になります。
 ※ 畠山氏は、政長の系統が
  江戸時代に旗本(高家{こうけ})になります。


日本史2



3.応仁・文明の乱の意義

 11か年に及ぶ京都での戦乱(応仁・文明の乱)は、
京都を焼け野原にしました。
 それまで在京が原則だった守護大名や
幕府直属の奉公衆{ほうこうしゅう}の多くは領国に下向し、
領国内の国人ら(彼らが結んだ軍事同盟が国人一揆)と
格闘することになりました。
 国人らを屈伏させて
領国の一円支配に成功した守護大名(戦国大名)は
武田・今川・大内・大友各氏に代表され、
守護代では織田氏・朝倉氏
(ともに管領家の斯波氏の守護代)などが
守護を押しのけて戦国大名に成長します。
 これとは対照的に、安芸国の毛利氏は、
国人一揆の代表者として
守護大名や守護代の権力をしのぐ権力を領国に及ぼし、
やがて中国地方を制覇することになりました。
三河の松平(徳川)氏も国人から成長しています。

 文化史上の意義としては、
京の貴族が守護大名のもとに移住し、
京文化を地方に根づかせる要因になりました。
京文化になじんだ守護大名・奉公衆らの
領国下向も見逃せない要素です。
それを代表する都市が、
周防{すおう}の大内氏の城下町山口や、
駿河の今川氏の城下町駿府{すんぷ}です。
駿府は今の静岡市です。

 → 室町時代



(2009/11/21(土))



日本史2



〜人物編11「織田信長」〜


日本史2



<16世紀後半の流れ>

・1560年:織田信長が( 1 )の戦いで今川義元を討つ。
・1568年:信長上洛。( 2 )が15代室町幕府将軍に就任。
・1570年:信長、( 3 )の戦いで朝倉・浅井両氏を破る。
・1570年:石山本願寺が信長との戦いを諸国の門徒に呼びかける。
      (10年余に及ぶ石山戦争の開始)
・1571年:信長、比叡山延暦寺を焼き討ち。
・1572年:武田信玄が上洛軍を発し、徳川家康を( 4 )の戦いで破る。
 →翌73年、信玄は陣中で病死。
・1573年:信長、(2)を追放。<室町幕府、滅亡>
・1574年:信長、伊勢国(● 5 )の一向一揆を弾圧(虐殺)。
 →朝倉氏滅亡後の(● 6 )国で一向一揆が起こる。(翌年弾圧)


149 1.桶狭間  150 2.足利義昭
150 3.姉川  4.三方が原
150●5.長島  150●6.越前



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・1575年:信長・徳川家康連合軍、
     ( 7 )の合戦で武田勝頼を破る。
・1576年:信長、近江国に( 8 )城を築城。
・1580年:信長、石山本願寺と和睦。
・1582年:武田氏滅亡。
・1582年:信長、( 9 )の変で敗死(自殺)
・1582年:羽柴秀吉、明智光秀を討つ。

 150 7.長篠  150 8.安土  151 9.本能寺




日本史2



・1583年:秀吉、( 10 )の戦いで柴田勝家を破る。
・1584年:秀吉、(● 11 )の戦いで
         徳川家康と戦う。(のち和睦)
・1585年:秀吉、( 12 )に就任。
・1586年:秀吉、(▲ 13 )に就任。「豊臣」姓を名のる。
・1587年:九州攻め。( 14 )追放令を発令。
・1588年:後陽成{ごようぜい}天皇を
      京都の居館(▲ 15 )に招く。
・1588年:海賊取締(停止・禁止)令、刀狩令を発令。
・1590年:関東の北条氏滅亡、東北の伊達政宗ら服属。天下統一を達成。
・1592年:(● 16 )の役(壬辰倭乱)開始。
・1597年:(▲ 17 )の役(丁酉再乱)開始。
・1598年:秀吉、死去。

 151 10.賤ヶ岳  151,151下●11.小牧・長久手
 152 12.関白  152 ▲13.太政大臣
 155 14.バテレン(宣教師)  152(▲漢字デ)15.聚楽第{じゅらくてい}
 155 156●16.文禄  156▲17.慶長


1.信長がめざした秩序

 信長は、従来、中世的なシステムを否定・破壊して
近世的なシステムの地歩を築いた存在として位置づけられていましたが、
近年では戦国時代に衰退した朝廷・幕府の権威回復につとめたことに
力点がおかれるようになっています。

 信長は、室町幕府の三管領家の一つ
斯波{しば}氏の領国の一つ
尾張国の守護代織田氏の支流の家に生まれましたが、
父・信秀の頃にはすでに京都の公家も
驚くほどの勢威を誇っていました。
この背景には、信秀が陸上交通の要所や津島など
伊勢湾に面する商業都市を支配下に置いていたことがあります。
 信秀は、早くから朝廷と結びつき、
信秀は伊勢神宮の遷宮{せんぐう}に際して
朝廷に多額の献金をしたことで知られます。
 信長自身も1559年に尾張統一を成し遂げた後、
自ら上京し、13代将軍足利義輝{よしてる}に謁見しています。

 戦国動乱の中で衰退していたとはいえ、
政治の中心地である京都に存在する朝廷・室町将軍家を
信長は支援すべき「天下」と認識し、
その姿勢は室町幕府滅亡(1573年)まで
抱き続けることになります。

 1560年、信長は桶狭間{おけはざま}の戦いで
駿河・遠江・三河を支配していた今川義元を討ち、
その武名を日本中に広めます。

 1567年、美濃斎藤氏の稲葉山城{いなばやまじょう}を陥落させ、
ここを居城にし、「岐阜{ぎふ}」と名づけます。
 この間、65年に将軍義輝が松永久秀らに殺害された頃から、
信長は「麒麟{きりん}」の「麟」の文字を崩した
花押{かおう、手書きのサイン}を用い、
「天下」の回復を自らの意思として
示すようになったとされます。
(麒麟は、中国で生まれた想像上の動物で、
戦乱が終わった時に現れるとされていました)
 この花押は、岐阜移住の頃から用い始めた
「天下布武{てんかふぶ}」の印章とともに
信長は生涯用いることになります。

 信長は岐阜移住と戦後して、
越前の朝倉氏などに亡命していた足利義昭(義輝の弟)と交渉をもち
(その義昭側の使者になったのが、
室町幕府の奉公衆=直属家臣で美濃に所領をもった
明智氏の子孫・光秀だったとされます)、
1568年に義昭を伴って上洛し、
彼を15代将軍につけることに成功しています。

 しかし、ほぼ同年齢の義昭と信長は、
幕政の主導権をめぐって対立。
信長は義昭の意をうけた周辺の諸大名
(朝倉、浅井、武田、石山本願寺、延暦寺ら)との戦いに
奔走することになりました。
 そして、1573年に義昭は京都を追放され、
事実上室町幕府が崩壊します。

 1575年、長篠の合戦で
武田勝頼(7年後に一族滅亡)をやぶった信長は、
以後、石山本願寺、西国(毛利氏など)、
北陸(越後の上杉氏)への攻略を進めます。
 1580年に石山本願寺と和睦、
1582年には武田氏を滅ぼします。
 本能寺の変の直前(82年5月)、
朝廷は信長に「関白か、太政大臣か、
征夷大将軍のいずれかに任命したい」という意向を示しますが、
信長はこの回答をしないまま変を迎えます。
 おそらく信長がめざしたのは、
上記の3職いずれでもなく、
あるいは一度はいずれかの職につくにしても、
最終的には「日本の王」、
または秀吉が構想した「アジアの王」
(中国・日本それぞれに天皇・関白を置くという)に
似たものだったと思います。

 秀吉が断行する明征服計画(朝鮮出兵)も、
すでに信長が構想していたものでした。

日本史2



2.信長が残したもの

 信長の先進性を示すものに、
長篠の合戦に見られた鉄砲隊の使用、
安土城など天守閣をもつ城郭の創建などがありますが、
いずれも信長の独創ではありませんでした。
 信長の鉄砲隊が武田の騎馬軍団をやぶったことは事実ですが、
信長はまた石山本願寺や根来・雑賀{さいか}などの
鉄砲隊に悩まされてもいます。
信長にとって「鉄砲隊」は
自らの天下統一を妨げる重要な敵だったのです。

 安土城も、
その先駆的な城郭である松永久秀の多聞山
(たもんやまじょう、1562年、大和に築城、
四重の天守を持ち、その櫓{やぐら}から
多聞櫓という名が後世に伝わっています)を
模倣・拡大させたものでした。

 松永久秀は、主君(三好氏)や将軍(義輝)を殺し、
東大寺の大仏殿・大仏を焼き払ったことなどから
日本史上でも「悪人」とされる人物ですが、
茶器などの収集・鑑定に長{た}けた文化人でもありました。
久秀は1568年に上洛した信長に臣従し、
のちに反旗をひるがえして
信貴山城{しぎさんじょう}で自爆死しますが、
もしも明智光秀が天下統一を達成していたら、
将軍(義昭)を追放し、延暦寺を焼き払い、
一向一揆・荒木村重一族などへの大量虐殺を行った信長もまた
「悪人」として歴史に名をとどめたことでしょう。

 信長は、後継者の秀吉が太閤検地・刀狩を行って
近世社会の基礎を築き、
さらにその後継者となった徳川家康が幕府を開設して
3世紀にわたる太平の世を築いたため
「近世の扉」を開いた人物として位置づけられています。
たしかに、信長が畿内・中部地方を支配下においたため
秀吉の天下統一がその後8年にして達成されたことを考えれば、
信長の果たした功績は決して小さなものではありません。
(オセロゲームでいえば、
信長は4つの隅のうち2つか3つほどおさえて
秀吉に譲ったといえます)

 しかし本能寺の変時の信長の国家構想は
まだまだ明確なものではなく、
信長が長生きしていたとしても、
秀吉のように徹底的な検地の断行を行ったかどうかは不明です。
 また、明征服にのり出す限り、
秀吉のように失敗するか、
成功したとしても次はヌルハチら満州の女真族
(のちに後金{こうきん}、清を建国)と戦わなければならず、
いずれにしても織田政権は動揺あるいは崩壊したことでしょう。

 信長が朝廷の権威回復につとめたことは、
その後も秀吉・家康に継承されます
(江戸幕府は禁中並公家諸法度で天皇の権限を制限しましたが、
朝廷の諸儀礼を復活させるなど
権威の回復には力を注いでいます)。

 → 戦国・安土・桃山時代



(2009/11/23(月))



日本史2



〜人物編12「徳川光圀」〜

日本史2



<整理:17世紀の流れ>

・1603年:徳川家康、征夷大将軍に就任。
・1605年:家康、将軍職を子の(▲ 1 )に譲る。
・1615年:大坂の役で豊臣氏滅亡。
 →同年、大名に一国一城令・(▲ 2 )<元和令>、
  朝廷に( 3 )を発令。
・1635年:(2)<寛永令>で
       大名の江戸参府=(▲ 4 )を義務づけた。
・1639年:(● 5 )船の来航を禁止。
・1651年:3代将軍( 6 )、死去。
      慶安の変=(● 7 )の乱が起こる。
 →大名に対する武断的な威圧政策を転換させた
 (いわゆる文治主義の政治へ)。

【文治政策で知られる17世紀の「名君」】
●加賀国金沢藩主(● 8 )−朱子学者(● 9 )を招いた。
●備前国岡山藩主(● 10 )−陽明学者(● 11 )を登用した。
●常陸国水戸藩主(▲ 12 )
     −江戸に彰考館を設け、(▲ 13 )を編さん。
●陸奥国会津藩主(● 14 )−朱子学者(● 15 )に学んだ。

・1657年:明暦の大火
・1680年:4代将軍家綱、死去。
      弟の(▲ 16 )が5代将軍に就任。
 →1685年から生類憐みの令を発令。

日本史2

 161▲1.徳川秀忠  160,162▲2.武家諸法度
 164 3.禁中並公家諸法度  162,179▲4.参勤交代
 174●5.ポルトガル ←1639年  161,162,179 6.徳川家光
 179●7.由井正雪
 180,180下●8.前田綱紀  194左●9.木下順庵
 180,180下●10.池田光政  180下,193,194左●11.熊沢蕃山
 180,180下▲12.徳川光圀  180下▲13.大日本史
 180,180下●14.保科正之  180下,193,194左●15.山崎闇斎
 180▲16.徳川綱吉


  〜日本史受験重要事項〜人物編12<17世紀>徳川光圀〜

1.虚構と真実

『水戸黄門』(TBS)は
1969年(昭和44)に放送が始まり、
今年で40年という長さを誇るテレビ番組として知られます。
 主演の水戸黄門
こと徳川光圀{とくがわみつくに}を演じる俳優も
今の里見浩太朗さん(2002年に登場)で5代目になります。

 いうまでもなく、「水戸黄門」という別称は、
徳川三家(御三家)の一つ水戸家の当主で、
権中納言{ごんのちゅうなごん=中納言格}という官職の
中国風の尊称(黄門)に由来します。
中国風尊称で有名な語に
「首相」「宰相」「太閤」等があります。
国政主導者の内閣総理大臣を意味する「首相・宰相」、
大臣の「〜相」は、現代も通用する語句です。

 テレビの光圀は 諸国を旅しますが、
史実の光圀は水戸・江戸間の往来や
関東の寺社や景勝地以外に旅をした事がありません。
 にもかかわらず光圀が諸国をまわって
悪代官などを退治したという話が江戸時代に出来たのは、
光圀自身にそうした伝承にふさわしい名君というイメージが
そなわっていたからだと思われます。

 光圀のように諸国を旅した伝承をもつ人物に
鎌倉時代の北条時頼がいます。
時頼が御家人の窮状を視察したという伝承は、
御家人から尊敬された政治家だったのかどうかを
考える上で一つの素材になります。

 以下、徳川光圀を
江戸時代前期の17世紀を代表する人物として
取り上げたいと思います。

 →  江 戸 時 代 



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2.青春期の徳川光圀

 徳川光圀(1628−1700)は、
徳川家康の末子・頼房(水戸徳川家の祖)の
3男として生まれます。
 水戸徳川家は、尾張徳川家・紀伊徳川家とともに
三家(御三家)の一家であり、
将軍本家の断絶にそなえて将軍を出す家でした
(水戸徳川家出身の将軍は15代慶喜が有名です)。
 徳川三家に限らず大名の後継者(世子)は
江戸で生活するため、
光圀も江戸で生まれ、江戸で青春期を過ごしたことでしょう。

 3男であった光圀が
長兄の頼重(次兄は夭折)をさしおいて
水戸徳川家の後継ぎになったことについて、
歴史学者の山室恭子氏は、
光圀が後継ぎに決まった1633年の時点で
3代将軍家光にまだ後継男子が生まれておらず、
三家の後継者の中で最年長者である頼重が
「4代将軍」になることを頼房が避けたためとしています。
 三家の中で格の低い(頼房が末弟のため)水戸徳川家が
「4代将軍」の候補になることは 徳川家分裂の政争を招く。
−頼房はそう判断したのかもしれません。
(この頃はまだ徳川将軍家の相続も安定せず、
1631年には家光の弟・忠長が甲府に
蟄居{ちっきょ}を命じられ、34年1月に自害しています)。

 頼重は高松藩主となり、
その代わりに頼重の子綱條{つなえだ}が
光圀の養子になって水戸藩主をつぎ、
光圀の子頼常が頼重の養子となり高松藩主をつぐことになります
(後に、家光に子・家綱が生まれ、
頼房が心配する事態にはなりませんでした)。

 若き日の光圀は、
家臣から「ごんごだうだんのかぶき人
(言語道断の傾{かぶ}き人=かぶき者)」と注意されるほど、
水戸徳川家当主としての未来が危ぶまれる人物でもありました。
 戦国動乱が大坂の役(1614−15年)で終了したあとも、
若い武士層の間には
戦国の下剋上{げこくじょう}の風がさめやらず、
再び動乱の時代が到来することへの願いがありました。
こうした願望から 華美な いでたちで 周囲を驚かせた彼らは
「かぶき者」とよばれました。
 17世紀前半に青春期を江戸で過ごした光圀も、
家康の孫でありながら、
こうした若い武士層の願望の影響を受けて育ったと思われます。

 →  江 戸 時 代 

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3.名君・徳川光圀

 いわゆる「中継ぎ」として水戸家当主になった徳川光圀は、
学問や儀礼の興隆という文治政治を代表する名君として活躍し、
彰考館{しょうこうかん}をもうけて
『大日本史』編纂などの文化事業をおこないます。
 3代将軍家光までの武断的な政策
(武家諸法度などに違反する大名を改易{かいえき}などで排除)から、
4代将軍家綱{いえつな}に始まる文治政治への
政策転換の波に乗って実行した代表的な藩主が光圀でした。

 こうした事業に大きな影響を与えた人物が、
明滅亡により日本に亡命してきた貿易家・軍人で
儒学者(朱子学・陽明学の中間で実学的な学風)の
朱舜水{しゅしゅんすい、1600−1682}です。
朱舜水は 光圀を「日本の魯王{ろおう}」と仰ぎ、
水戸藩の学者とも深く交わり、江戸で死去します。
 魯王は儒学の祖・孔子を保護した君主という意味をもちます
(魯王と孔子の関係について史実は諸説あります)。

 光圀の名君ぶりを伝える逸話には、
5代将軍綱吉に犬の皮を送りつけたというものがありますが、
庶民の生類憐みの令に対する不満が名君とされた光圀像と
結びついたのでしょう(綱吉は光圀の従兄の子で18歳年下)。
 史実としては、
領内に生類憐れみの令のような法令を出すことなく、
鶴を殺した者を死罪に命じながらも
のちに執行を中止したという事例などが残されています。

 →  江 戸 時 代 
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4.紋太夫事件

 藩主の地位を綱條にゆずった4年後の
1694年(元禄7)11月、徳川光圀は
水戸藩家老(大老)の藤井紋太夫{もんだゆう}を
江戸・小石川の藩邸で自らの手で殺害します。
 目撃した家臣は、
「血の胴へ落ちる音、がうがうと聞こえ候て、
そのまま事切れぬ。」と記録しています。

 紋太夫手討ちの原因は不明ですが、
紋太夫が 綱條を藩主の座から降ろそうとした説、
側用人の柳沢吉保に内通していたとする説など様々あります。
 綱條は 紋太夫の遺児2人も処刑しようとしますが、
光圀はこれを助命嘆願しています。

 晩年の光圀は、水戸から20キロも離れた西山に居をうつし、
百姓のかわりに 年貢の減免を役人に願い出るなどの
エピソードも残しながら、
17世紀末の1700(元禄13)年12月、72歳で死去します。
 年明けた1701年(元禄14)4月には
赤穂事件の発端を告げる江戸城松の廊下での
刃傷事件が起こります。

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(2009/12/02(水))


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